ルクセンブルク/ルクセンブルク大公国
ドイツ、フランス間の緩衝地帯の小国。現代もベネルクス大公の治める世界で唯一の大公国である。1867年から永世中立国であったが、第二次世界大戦後はベネルクス三国の一員となり、ヨーロッパ統合の当初からのメンバーとなっている。
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ルクセンブルク大公国の成立
10世紀にアルデンヌ家から分かれたルクセンブルク家がこの地の領主となり、神聖ローマ帝国の一部となる。ルクセンブルク家は一時、神聖ローマ皇帝を出し、有力な存在だった。最も著名なのは14世紀のカール4世で、金印勅書を制定し、ボヘミア王を兼ねてプラハ大学を創設した。しかし15世紀からは周辺の勢力に押されて衰退し、ブルゴーニュ公国に併合された後、ハプスブルク家領となった。ナポレオン戦争で神聖ローマ帝国が解体された後、1815年にウィーン議定書によってオランダ王を大公とするルクセンブルク大公国となり、ドイツ連邦に加盟するとともに、連邦要塞が置かれ、プロイセン軍が駐屯することとなった。つまり、オランダ王国と同君連合であり、かつドイツ連邦に加わるという微妙な存在となった。1830年にベルギー独立運動が起きるとそれと連動してオランダからの離脱をはかったが、31年のロンドンでの会議では国土の西半分をベルギーに割譲(39年に実現)し、残りは依然としてオランダ王を大公とすることで収まった。永世中立の緩衝国家として存続
ウィーン体制崩壊後の19世紀後半、プロイセンが普墺戦争で勝利してドイツ連邦が解体されたが、プロイセン軍は依然として駐屯を続けていた。それに対してフランスのナポレオン3世が抗議し、ついでルクセンブルクの買収をはかったことにより、ルクセンブルクをめぐるフランスとプロイセンとの対立(ルクセンブルク問題)が表面化した。1867年5月にロンドンで国際会議が開催され、ルクセンブルクはいずれにも属さない永世中立国とすることで妥協が成立した。1890年にルクセンブルク大公を兼ねるオランダ国王が死去したため、ドイツのナッサウ公を大公として迎え、オランダとの関係は終わった。現在のルクセンブルク大公は、このナッサウ=ヴァイルブルク家が世襲している。このようにルクセンブルクは周辺の大国に翻弄されながら、永世中立国として大国間の緩衝国となることで独立が維持されてきたと言える。その点では、スイス(ウィーン議定書で永世中立国とされた)、ベルギー(1839年、永世中立国として独立が認められた)と同じである。
ベネルクス三国の一つとして欧州統合を推進
二度の世界大戦では、いずれもドイツ軍の占領下に置かれたたため、戦後1949年に永世中立を破棄し、NATOに加盟、独自に陸軍だけを有している。また第二次世界大戦後は、オランダ・ベルギーとともにベネルクス三国を形成して、積極的にヨーロッパ統合に加わった。48年にはベネルクス三国の関税同盟を結成、その後のヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)、欧州経済共同体(EEC)、ヨーロッパ共同体(EC)、ヨーロッパ連合(EU)でも積極的な推進役となって現在に至っている。