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スイス

ヨーロッパの中心、アルプスの山岳地帯にある多民族国家。13世紀に諸邦の連合国家として自立、1648年ウェストファリア条約で独立を認められ、1815年ウィーン会議で永世中立国となった。その後も強国に囲まれながら武装中立、地域分権、直接民主政など独自の性格を維持し、典型的な小国としての政治形態と文化を継承している。

スイス史の概略

スイス地図
スイスの地図 Yahoo Mapによる
ローマ領からフランク王国へ アルプスの山岳地帯であるがヨーロッパの中心に位置するため、古来の交通の要衝となっていた。ケルト系のガリア人の居住地であったが、前1世紀にカエサルなど、ローマの侵攻を受け、その属州支配を受ける。その後ゲルマン系のランゴバルドなどが王国を作った後、前8世紀にフランク王国の支配を受けたが、その分裂に伴い、小領主の支配する邦が形成される。
ハプスブルク家の支配と独立 スイス出身のハプスブルク家が有力となり、ウィーンに移ってからもスイスに支配し続けた。10世紀ごろから、スイス諸邦のなかにハプスブルク家からの独立を目指す運動が強まり、1291年、三つの邦が盟約者同盟を結成して独立を実現。それがスイスの出発となった。盟約者同盟は次第に加盟する邦をふやし、15世紀末、1499年に神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世とシュヴァーベン戦争を戦い、勝利することによってハプスブルク家からの実質独立を獲得した。この間、スイス人傭兵はフランスやローマ教皇の軍事力として活動した。
宗教改革 16世紀にはスイスにも宗教改革の波が押し寄せ、チューリヒではツヴィングリが改革を進め、ジュネーヴではカルヴァンが市の執権を握り、神権政治とわれる改革を行った。
スイスの独立の承認 16~17世紀、ヨーロッパでは宗教戦争が相次ぎ、特に三十年戦争(1618~1648年)は最大にして最後の宗教戦争であった。この戦争をつうじてヨーロッパは主権国家の段階に入り、三十年戦争後の国際条約である、1648年ウェストファリア条約でスイスの盟約者同盟が国家として国際的に認められた。その後もスイス各邦では封建的な支配が続いたが、ヨーロッパ各地から亡命してきた新教徒などの産業活動も活発になって、次第に実質的な国家統一をめざす運動も起こってきた。
フランス革命の影響 フランス革命が起きるとその影響はスイスにもおよび、1798年に中央集権をめざすヘルヴェティア共和国がフランス総裁政府の後押しで成立したが、独立志向の強い各邦をまとめるのは困難で、間もなく崩壊、その後はナポレオンが各邦と同盟を結ぶ形でその支配を及ぼした。ナポレオン没落後のウィーン会議に参加し、1815年のウィーン議定書でスイスは永世中立国であることが認められた。ドイツとフランスにとっても緩衝地帯としてスイスが中立であることが必要であった。
永世中立となる ウィーン体制のなかで連邦政府の主権国家としての統一を強化しようとする動きと、カントン(このころから邦をフランス語でカントンというようになっていた)の独立性を維持しようとする動きが対立し、一時は分離同盟戦争という内戦も起こったが、ヨーロッパ各地で起こった1848年革命の影響を受けながら独自の直接民主政の工夫を取り込んだ憲法を制定し、連邦国家の確立に成功した。
中立の試練 20世紀のスイス 20世紀に入るとスイスの中立政策は二度の世界大戦で大きな試練に立たされることとなった。第一次世界大戦の後に成立した国際連盟には、軍事的な共同行動には加わらないことを条件に加盟し、中立政策との妥協を図った。しかし、隣接するドイツ・イタリアでファシズムが台頭すると、絶対中立に戻ることを国際連盟にも認めさせた。第二次世界大戦でも中立を宣言したが、ドイツ軍の侵攻の恐れが大きく、開戦と同時に総動員で国境の防衛を強めるなど武装中立の姿勢を強めた。
戦後のスイス 結局ドイツ軍の侵攻がある前に戦争が終結し、スイスは戦火を免れたが、国際連合への加盟は見送ることとなった。戦後の冷戦時代は中立政策も意味があったが、1980年代に冷戦が終結に向かうと、スイスも中立政策を見直し、世界経済、政治の国際化への対応に迫られた。連邦政府が国際連合加盟を国民投票にかけても賛成を得られない状態が続いたが、ようやく2002年に僅差で賛成が上まわり、国連加盟が実現した。しかし、EUへの参加は否決され、実現していない。このように、スイスは伝統的な武力中立とともに多言語国家、地域分権、直接民主政などの独自性を維持し、現在に至っている。

スイス(1) 盟約者同盟団の独立

アルプスの山岳地帯にある小国であるが、ヨーロッパの中心に位置するため、古くから交通の要衝であった。中世には長くハプスブルク家の支配を受けたが、1291年に三つの邦(州)が盟約者同盟を結成し、15世紀末に実質独立を獲得、1648年ウエストファリア条約で国際的に承認された。

 紀元前1世紀のローマ時代にはケルト人の一派であるガリア人が居住していた。特にスイス西部にはヘルウェティイ族という勇猛な部族が居住していた。ローマの将軍カエサルガリア遠征の記録である『ガリア戦記』の冒頭にはヘルウェティイ族の大移動がカエサルの遠征の契機だったことが記されている。

ローマによる支配

 この前58~51年のカエサルの遠征によってローマ化が進み、さらにローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスは数回にわたりガリア遠征おこない、前15年までにアルプス全域をローマの支配下においた。ローマ帝国ではこの地は属州ヘルウェティアといわれ、ローマ人の植民市や入植地が作られた。チューリヒ、バーゼル、ローザンヌ、ジュネーヴなどのスイスの都市の多くはこの時代にローマ人によって建設されたものである。現在もローマ植民市アウェンティクムであったアヴァンシュにはローマ風の円形劇場その他の遺跡が残っている。

ブルグンド王国

 4世紀以降のゲルマン人の大移動によって、スイス西部にはブルグンド人が413年にブルグンド王国を作っている。彼らはフン族とローマに挟撃され、後に現在のジュネーブからサヴォアにかけての一帯でローマの同盟国となってブルグンド王国を再建した。この地ではケルト文化ととローマ文化の融合が進み、次第にゲルマン的要素を失ってラテン化し、フランス語を話すようになった。彼らがジュネーヴの東部に広がった範囲が、現在のスイスのフランス語圏となった。ブルグンド王国は西ローマ帝国滅亡後に独立し、国王ジギスムントのときアタナシウス派のキリスト教に改宗した。ブルグンド王国は534年にフランク王国に滅ぼされたが、その支配下でも独自のローマ風の文化が残ることとなった。なおスイス北東には東ゴート人が王国を作ったが、国王テオドリック没後に衰え、替わってアレマン人がスイスに移住した。彼らのカトリック化は遅れた。

フランク王国以降

 フランク王国カール大帝774年にランゴバルト王国を征服し、アルプス越えのルートでローマに赴いた。こうしてヨーロッパの北と南を結ぶルートがアルプスを通って設けられたことはスイスの歴史にとっても画期的なことだった。カール大帝はチューリヒのグロースミュンスター教会を創建したという伝説も残っている。843年ヴェルダン条約でフランク王国が三分割されると、スイス中央部はロタール領、東部の旧アレマン貴族たちは東フランク(ドイツ)の支配を受けることとなった。ドイツ王は盛んに修道院を設け、王領地を寄進して不輸・不入の特権を与え保護することによって勢力を維持しようとした。

ハプスブルク家による支配

 ついで10世紀から、神聖ローマ帝国の歴代皇帝がイタリア政策を遂行するための重要な交通路となったために、神聖ローマ皇帝の直轄地とされた。特にサン・ゴタール峠はドイツとイタリアを結ぶルートとして重視された。スイスの出身であるハプスブルク家が皇帝位に就くと、本拠をウィーンに移してからもスイスを直轄地として支配し、圧政を加えた。

スイスの独立運動

 ハプスブルク家の支配に対して、1291年、ウリ・シュヴァイツ・ウンターリンデンの三邦(州)が協力して「自由と自治」を守るための「永久同盟」を結成した。この盟約者同盟(誓約者同盟ともいう)結成はスイス国家の出発点とされ、その日である8月1日は現在もスイスの建国記念日とされ、この三州は「原初三州」といわれている。1315年には原初三州の農民軍が、モルガルテンの戦いでオーストリア公レオポルド1世の騎士軍を撃退、翌1316年には皇帝ルートヴィヒ4世によって原初三州の独立が承認された。次第に周辺の州も同盟に加わり、1353年には8州による「盟約者団会議」が成立した。
 スイスに対する支配権を回復しようとするハプスブルクは、再び騎士軍を派遣したが、1386年ゼンパハの戦いでスイス民兵が破り、その後の戦闘でもスイス側が勝利し、1389年には実質的独立が達成された。なおもハプスブルク家の名目的な支配が続いたが、実質支配を回復しようとしたマクシミリアン1世がさらに1499年に侵攻した。そのシュヴァーベン戦争でもスイスはハプスブルク軍の撃退に成功し、最終的にハプルブルク帝国からの分離・独立が確定した。なお、スイスの国名のドイツ語表記である Schweizerische Eidgenossenschaft のエイトゲノッセンシャフトとは、盟約者団(誓約者同盟)を意味しており、今も生きていることになる。ただし、独立の国際的承認は1648年ウェストファリア条約を待たなければならなかった。

Episode ウィリアム・テルの伝説

 スイスの独立運動というとウィリアム・テルの話が有名である。ウリ州のアルトルフという村で圧政をしく神聖ローマ帝国ハプスブルク家の代官に反抗したテルが、自分の子供の頭にのせたリンゴをみごと射ぬき、代官をこらしめる話である。ただしこの話はまったくの伝説で、しかも15、6世紀にアイスランドから伝えられたものだった。それがシラーの戯曲やロッシーニのオペラで有名になったにすぎない。しかし、スイスのハプスブルク家からの独立運動の心情をよく現しているので、広く受け入れられたのであろう。

スイスの傭兵制度

 15世紀末ごろから人口増加が始まり、農耕地の狭いスイスでは穀物の不足と、労働人口の過剰という問題が深刻になってきた。このころから、スイス人が傭兵として働くようになっていった。スイス人はハプスブルク家との戦争で粘り強く戦うなかで勇猛な戦士として育っていたので、各地の戦争でめざましく活躍した。有名なスイスの傭兵はこのような事情から生まれた。
(引用)穀物輸入資金を確保し、他国政府からスイスへの穀物輸出の自由を保障してもらうという二重の要請に応えるものとしてスイスの傭兵制度が誕生していった。盟約者団各邦は政府間協定によって外国政府に自邦内での傭兵徴募を特許し、その見返りに各邦政府は協定期間中その国から毎年多額の年金を受けとり、かつ各国政府からの穀物輸入の保証を得たのである。その最初の協定例は1474年のフランスとの傭兵契約同盟であった。……スイスの傭兵契約同盟はこれ以降19世紀に至るまでスイス史の重要な柱になっていくが、フランスとの同盟が基軸になった。<森田安一『物語スイスの歴史』2000 中公新書 p.88>
 スイス人傭兵が重要な働きをした例には、1494年、フランス王シャルル8世が7~8000人のスイス人傭兵を用いてナポリに遠征して始まったイタリア戦争がまずあげられる。
 このような傭兵契約同盟は常に効果的に機能したわけではなかった。それは、公式な傭兵取り引きとは別に私的取引があったからで、その場合は実入りが良い方の傭兵になるので、同じスイス人傭兵同士が戦うこともあった。また、傭兵の賃金支払いが滞ることもしばしばあり、そんなときは傭兵が戦場を離れて略奪行為に走ることが多く、治安の悪化に繋がった。
ローマ教皇の傭兵 私的な傭兵契約はスイス人同士の戦いの危険を生むので、1503年以降は禁止されたが、実効はあがらなかった。また、フランス国王は賃金不払いのため、スイス人の傭兵契約はローマ教皇庁に移った。1510年、ローマ教皇ユリウス2世は盟約者団12邦と傭兵契約同盟を結び、翌年、北イタリアからフランス軍を追い出し、ミラノにはスイス軍が傀儡政権を建てるほどだった。その後もローマ教皇庁とスイス人傭兵の関係は続き、現在もヴァチカンではスイス人護衛兵の姿を見ることができる。
フランス王の傭兵 しかし、ローマ教皇庁の傭兵賃金支払いも遅延したため、スイスには親フランス派が再び台頭し、1516年にはフランソワ1世が北イタリアを奪回すると、翌年、スイス盟約者団とフランスの間で「永久平和」の取り決めを行い、さらに1521年には傭兵契約同盟に強化されて、フランスは高額の年金を与える代わりに傭兵徴募が認められた。フランソワ1世はこのスイス人傭兵を、神聖ローマ帝国カール5世との戦いに投入した。このフランスとスイス人傭兵との関係は、17世紀後半のルイ14世の数々の対外戦争を頂点に、基本的には19世紀まで継続し、ようやく1848年の憲法で禁止される(後出)。

スイス(2) 宗教改革の時代

スイスの宗教改革運動

 16世紀、宗教改革の時期には、チューリヒツヴィングリが現れた。彼はルターとは教会改革では一致したが、徹底して外的な儀礼の廃止を主張したため意見が分かれ、二人は決裂、スイス諸州もツヴィングリ派とカトリック派に分かれて1531年のカッペルの戦いとなってしまった。この戦いでツヴィングリが戦死し、スイスの宗教改革はいったん頓挫する。
 同じころ、ジュネーヴではフランス人のカルヴァンが福音主義を説いてその市政を握るなど、運動の中心地となった。その後カルヴァン派はフランスでユグノーといわれて増加し、1598年ナントの王令で信仰を認められた。

独立の国際的承認と新教徒の移住

 16世紀にはフランス国王は国内のユグノーとの宗教戦争であるユグノー戦争もスイス人傭兵を多く利用した。ドイツでの宗教戦争である三十年戦争では、スイス人傭兵はグスタフ=アドルフのスウェーデン軍にも、リシュリューのフランス軍にも加わっていた。しかし、三十年戦争をつうじて、スイスは常に外国軍によって侵犯されたため、はじめて邦の間に共同して守ろうという機運が生じた。 スイス盟約者同盟団は、はじめて中立を周辺諸国に表明し、あわせてはじめて連邦軍を編成することによって、武装中立の姿勢を採った。これはスイスの武装中立の出発点であり、連邦国家に踏み出す国家形成史の重要な画期となった。
 三十年戦争はハプスブルク家の劣勢のまま講和とり、スイスの中立の維持と国家的紐帯の強化は国際的に評価され、1648年ウェストファリア条約によってはじめてスイスの独立が国際的に承認されることとなった。
 その後、1685年にフランスでルイ14世がナントの王令の廃止に踏み切ったため、新教徒であるユグノーの多くがスイスに移住した。ユグノーは商工業者層に多く、その中の時計職人がスイスの時計産業を興したという。

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スイス(3) 永世中立国スイスの成立

フランス革命の影響を受けて、1798年にヘルヴェティア共和国が成立したが、ナポレオンの実質的支配に組み込まれ、1815年のウィーン議定書で永世中立国となる。同時に周囲の強国の干渉を避けるための原則である連邦制が守られた。

フランス革命とスイス人傭兵

 1789年にフランス革命が勃発した。国王ルイ16世の王宮を守護するのは、伝統のスイス人傭兵だった。1792年、義勇兵を先頭にパリ市民がチュイルリー宮殿の国王を襲撃した8月10日事件では、防衛にあたったスイス人傭兵は600名を超える犠牲者を出した。

Episode 瀕死のライオン

瀕死のライオン

スイス ルツェルン氷河公園 入口にある、8月10日事件で全滅したスイス人傭兵を讃える瀕死のライオン像。 (トリップアドバイザー提供)

 現在、スイスのルツェルンにある「氷河公園」の入口に、「瀕死のライオン」と名付けられた、弱々しく横たわっているライオン像がある。これは、フランス革命のさなかの8月10日事件の時、テュイルリー宮殿でパリの国民衛兵・各地の連盟兵の攻撃からフランス国王を守り、600人が戦死したスイス人傭兵の「栄光と忠誠」を讃えるために建てられたものだという。瀕死のライオンはブルボン家の紋章である百合の花を描いた楯を抱えた姿で岩に掘られている。<森田安一『物語スイスの歴史』2000 中公新書 p.137-8>

スイス革命

 一方、フランス革命の自由と平等の理念は、スイスにも直接影響を及ぼし、各地で「自由と人権」を掲げた蜂起が起こった(スイス革命)。さらに1793年のルイ16世処刑に対して対仏大同盟(第1回)が形成されると、スイスは中立を表明したが、95年頃からフランス軍とオーストリア軍がそれぞれスイスに出兵し、戦場となった。

ヘルヴェティア共和国

 カンポ=フォルミオの和約が成立した後、1798年、フランスの総裁政府の後押しで、スイスにヘルヴェティア共和国が成立した。ヘルヴェティアとは、カエサルの『ガリア戦記』にも出てくるローマ時代にスイスに住んでいたケルト系民族ヘルウェティイ族による呼称である。この共和国は総裁の下で統一不可分の共和国として統治され、従来の独立性の強かった邦は単なる地方行政単位であるカントン(フランス語で州の意味)とされた。これは、旧来のスイス盟約者団の諸邦の連邦体制を否定し、中央集権体制を持ち込んだものであったので、原初三邦をはじめとする各邦は強く反発し、反乱を起こした。総裁政府は軍隊を派遣して反乱を鎮圧、戦死者が多数出た。共和国自体もその内部に急進派と穏健派の対立などがあり、安定しなかった。
ペスタロッチ 日本でもよく知られたスイスの教育者ペスタロッチ Johann Heinrich Pestalozzi 1746~1827 はヘルヴェティア共和国の樹立に関わり、その熱心な支持者だった。ペスタロッチはルソーの『エミール』などの教育観に強く影響され、チューリヒで教育と著述につとめ、フランス革命が起きると熱心な支持者となった。「民衆教育の父」と言われ、1792年にはフランス国民議会からフランス市民の称号を与えられた。1798年にヘルヴェティア共和国が成立すると、ペスタロッチはその要請を受けて、スイスにおいても民主主義による統一国家によって自由と平等を実現しよう、と各邦に呼びかけた。しかし、スイス東部のシュタンスでは統一に反対する人々が反乱を起こし、フランス総裁政府軍の介入によって戦死者が出た。ペスタロッチはシュタンスに赴き、戦争孤児のための孤児院を作った。その時の体験が『シュタンツだより』で書き残されている。ヘルヴェティア共和国は1802年までで消滅したが、ペスタロッチはその後も各地で孤児院・学校を形成して教育実践にあたった。彼の教育理念は、一方的に教え込むのではなく、学ぶ児童の自主的な体験を重視し、知育・徳育・体育のバランスのとれた人間の発達をめざすという近代の教育に大きな影響を及ぼし、特に日本の教育界では現在でもその信奉者が多い。

ナポレオンとスイス

 フランスで総裁政府を倒して実権を握ったナポレオンは、1802年にスイスの各カントン代表をパリに呼び出し、カントンの独立を保証し、その同盟支配を復活させる「調停法」を制定した。同時に軍事同盟を結び、スイスをナポレオン体制の軍事支配の一部に組み入れた。これによって、ヘルヴェティア共和国はわずか5年で崩壊、スイスへのフランス革命の輸出に失敗したと言える。
 ナポレオンのロシア遠征には、9000人のスイス連隊が参加した。撤退するナポレオン軍の殿軍を命じられ、ベレジナ川では氷点下20度のなかでロシア軍の攻撃に耐え、戦闘後生き残ったスイス兵はわずか300人だった。ナポレオン没落語、「調停法」は廃止され、1815年に盟約者団会議は22のカントンが新たな「同盟規約」を締結して、連邦国家として再出発することとなった。

ウィーン会議で永世中立となる

 ナポレオン没落後の国際会議であるウィーン会議では、スイスの安定はヨーロッパ各国の安全にとっても重要な意味があると認識されたので、その領土と国家形態について話し合いがもたれ、その合意として、1815年のウィーン議定書で、22州(カントンといわれる自治体)からなる連邦国家であり、しかも永世中立国となることと同時に承認された。

参考 スイスが永世中立国となった理由

 ウィーン会議において、スイス盟約者会議団(スイスは自らこう名乗っている)はスイスの独立と中立の承認をとりつけるため三人の代表が次のような主張を行った。
(引用)スイスの同盟体制を一瞥すれば、もし中立が不確かであったり、政治や戦争の変化にただ放っておかれれば、スイス国民ほどヨーロッパのなかで不幸な国民はいないことをただちに納得させられるであろう。しかし、この際スイスの安寧だけが考えられているわけではない。この中立はドイツ、イタリア、それにフランスの平安にも決定的に大事なのである。これらの国々にとっては、ヨーロッパ内の最近隣国が最も強力な防衛位置であると同時に、最も危険な攻撃地点でもある。<森田安一『物語スイスの歴史』2000 中公新書 p.167>
 つまり、スイスが永世中立となることは、ドイツ、フランス、イタリアおよびオーストリアという周りの4国にとってもその安全保障上、好ましいことであったのである。またスイスの各州(カントン)にとってもスイスとしての統一を維持するためには周辺の強国のいずれとも同盟関係を結ばず、永世中立であることが必要だったわけである。
 → swissinfo.ch 歴史&宗教のページ スイスが永世中立国になった日

ウィーン体制下のスイス

 ウィーン体制下では、スイスは君主国ではないにもかかわらず神聖同盟に加盟させられた。しかし、各国で自由主義民族主義の運動が盛んになると、弾圧された自由主義者が民族主義者がスイスに亡命し、スイスもその影響を受けた。進歩派は人権と自由を保障する中央集権的な共和政国家を志向し、保守派は中央集権化を嫌い、伝統的なカントンの分離独立を維持し、その中での秩序の安定を志向した。両派はたびたび衝突し、盟約者同盟は再び危機を迎えた。ジュネーヴでは、1846年10月に革命が起き、翌年には新たな憲法が制定された。その指導者は、ジュネーヴ出身のルソーが100年前に掲げた理想が実現した、と述べている。
分離同盟戦争 自由主義の拡大が再び中央集権に向かうことを恐れた保守派も反撃し、カトリック派が優勢な7カントンは1845年に「分離同盟」を結成していた。自由主義派が優勢となった盟約者同盟会議は分離は分離同盟の解散を通告したが、それに従わなかったため、1847年に両派による武力衝突が起こった。この分離同盟戦争は同盟会議側の勝利に終わったが、ドイツ、ロシア、オーストリア、フランスなどの列強による介入の危機が高まった。

連邦国家スイスの成立

 1848年、列強の介入の危機が強まる中、フランスで二月革命、ベルリンとウィーンで相次いで三月革命が勃発し、これら一連の1848年革命によって、ウィーン体制は崩壊した。その前年のスイスの自由主義政権が分離同盟戦争に勝ったのは、そのさきがけの働きをしたということができる。  1848年4月、盟約者団会議は新たな憲法の制定を急ピッチで完成させた。22カントンの批准を受けて成立し、その後、2000年に新憲法が制定されるまでのスイスの基本的枠組みとなった。その第1条から第3条は次のような内容であり、スイスは主権を有するカントンの連邦国家であることを謳っている。
  1. 22の主権を有するカントンの諸国民は、その全体でスイス盟約者団を形成する。
  2. 盟約の目的は、祖国の独立を確保し、国内の安寧と秩序を維持し、盟約者の自由と権利を保護し、共通の繁栄を促進する。
  3. カントンは、その主権が連邦憲法に制限されない限り、主権を有し、連邦にゆだねられていないすべての権力を主権者として行使する。
 この1848年憲法は、カントンを重視する分権派と、中央集権を重視する急進派の両主張の妥協の産物と言える。その点ではアメリカ合衆国憲法の制定過程における、反連邦派連邦派の対立に似ている。妥協の産物として、立法府はアメリカの二院制が採用され、上院にあたる全邦(カントン)会議は各カントンが選出する2名の議員、全44名で構成され、下院である国民議会は人口2万人にひとりの割合で選出された。
 行政府(内閣)にあたる連邦参事会は、両議会の連邦合同議会で三年任期で選出される。閣僚は七名で各人が一省を担当、共同で責任を負い、そのうち一人が大統領を務め、閣議を主催した。大統領は一年任期で再選が認められない。つまり大統領は国民の直接選挙でなく、特別な権限はないが、議院内閣制ではないので議会から不信決議を受けることもない。
傭兵制度の禁止 1848年憲法では国民皆兵の規定(次項参照)と同時に、第11条で傭兵契約を禁止した。スイス人傭兵はヨーロッパ各国で重宝され、伝統であったが、これで明確に禁止され、49年には契約中の傭兵徴募も禁止された。ただし、ローマ教皇庁の警備だけは特例として認められ、現在もヴァチカンのスイス人衛兵として続いている。
国際赤十字の発足 1859年、イタリア統一戦争の過程で、北イタリアのソルフェリーノでサルデーニャ・フランス連合軍とオーストリア軍の衝突があった。その戦争の終結交渉はチューリヒで行われ、中立国スイスが次第にその役割を果たし始める。この戦争に参加したジュネーヴ生まれのアンリ=デュナンは、負傷者が手当てされることもなく、戦死者が葬られることもない悲惨な情景を62年に『ソルフェリーノの思い出』として出版した。それを機に、中立を掲げるスイス政府の後押しもあって、64年にヨーロッパ16ヵ国とアメリカ合衆国が署名してジュネーヴ協定が成立し、国際赤十字が誕生した。設立へのスイスの功績が認められ、赤十字の旗はスイス国旗の赤地に白十字を裏返した赤十字に定められた。

スイス(4) 近代のスイス連邦(武装中立の苦悩)

武装中立を掲げたスイスだったが、二度の世界大戦で大きな試練に直面した。国際連盟には加盟したが、国際連合には参加しなかった(2002年に加盟)。

スイスの武装中立外交

 1815年のウィーン議定書で、スイス連邦は永世中立であることが国際的にも承認され、それ以降、現在まで中立国として歩んでいる。それはドイツ、フランス、イタリア、オーストリアと言ったヨーロッパ列強に囲まれたスイスが必然的に採らざるを得ない、外交政策の基本であったが、激動する世界情勢の中で、中立を維持するのは困難な状況が続いた。特に、20世紀の二度の世界大戦は、世界の平和維持のための集団安全保障が具体化されたとき、スイスはそれらにどのように臨むか、困難な選択を迫られることとなった。
 その結果、スイスは、第一次世界大戦後の国際連盟には加盟したものの、第二次世界大戦後の国際連合には加盟しないという、矛盾する姿勢を示すこととなった。しかも、国際連合に対しては、2002年に方針を転換して加盟するという変化を見せている。その一方で、ヨーロッパ統合の動きであるヨーロッパ連合(EU)には、2001年の国民投票で早期交渉開始そのものが否決され、依然として参加していない。このようなスイス外交の推移にはどのような事情があったのだろうか。

第一次世界大戦とスイス

 第一次世界大戦が起こると、スイスは1914年8月に中立宣言を行い、国境を防衛するため総動員令を出して武装中立を貫く姿勢を示した。同じ中立国ベルギーはドイツ軍の侵略を受けたが、スイスは戦火に見舞われることはなかった。しかし国内のドイツ系住民とフランス系住民の間の溝が深まったためスイスの一体化を求める運動も強まった。スイスが直接戦争に巻き込まれることなく、大戦は終結し、ヴェルサイユ条約でスイスの独立は国際的に再確認された。同時に人類最初の国際紛争調停機関として国際連盟が設立され、その本部はスイスのジュネーヴに置かれた。
国際連盟への条件付き参加 しかし、国際連盟への加盟には問題があった。それは集団安全保障という連帯によって平和を維持する手段として、国際連盟規約第16条は平和や安全を維持する義務に違反した国に対して経済的制裁と、場合によっては軍事的制裁を行うことを定めていた。これはスイスの伝統的な中立の理念に反しており、スイスは無条件で国際連盟に加盟することができなかった。国際連盟側もスイスの加盟はできない、と考えていたが、アメリカの国際連盟不参加が明らかになると、風向きが変わり、1920年2月の「ロンドン宣言」により、国際連盟はスイスの特殊な地位を容認し、スイス側が要求した軍事措置上の三項目(国際連合の軍事行動への不参加、領土内の外国軍隊通過の不承認、領土内の戦闘準備行動の不許可)が認められ、スイスは経済的制裁の義務を行うことだけを条件に国際連盟に加盟することになった。スイス政府・議会は、世界平和のために集団安全保障の連帯責任をとる道を選び、「絶対中立」から「制限中立」に移行しようとしたのだった。同年5月、国際連盟加盟の可否を問う国民投票が行われた結果、54%が賛成し、カントン票は1票差でかろうじて承認された。まさに薄氷を踏む思いの投票結果だった。<森田安一『物語スイスの歴史』2000 中公新書 p.233-235>
絶対中立に戻る しかし、国際連盟による集団安全保障体制は、アメリカとソ連の不参加という当初からの問題に加え、1930年代に入ると日本、ドイツ、イタリアと言ったファシズム国家が次々と脱退し、動揺が激しくなった。1938年3月、ドイツがオーストリアを併合したことによって、スイスは国際連盟非加盟のドイツ・イタリアと加盟国フランスに挟まれることとなった。そこでスイスは4月に国際連盟に対し絶対中立へ戻ることを伝えた。こうしてスイスは「絶対中立国」として第二次世界大戦を迎えた。

第二次世界大戦とスイス

 1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻し第二次世界大戦が始まった。その前日の8月31日、スイスはヨーロッパ各国に伝統的な中立を維持することを宣言し、翌日9月1日に総動員令を発した。42万が兵役に就いたが、装備は古く、特に航空機は不足し、取り急ぎ80機の戦闘機をドイツに注文した。40年5月、ドイツ軍はベルギー・オランダ・ルクセンブルクの三中立国に侵攻してフランスを目指し、フランスは降伏した。これによってスイスは枢軸国に完全包囲され、国民はパニックに陥った。
スイスの防衛戦略 国防の責任者アンリ・ギザン将軍は、徹底抗戦を訴え、侵入軍があったら平地は放棄して、アルプスの山岳地帯に軍隊を集結させ、機甲部隊や航空機による攻撃が効果的にできない状態に持ち込み、長期的な抵抗で敵を消耗させるという戦略を立てた。そして独伊両国には最終的にはアルプスを縦断するザンクト・ゴットバルトとシンプロンの二大トンネルを爆破すると通告した。このギザン将軍の「立てこもり作戦」は、ヒトラーにイギリス攻撃を優先させたので、一定の効果があったと言われている。結局ドイツ軍はイギリスを攻略できず、41年6月から兵力をソ連に差し向けることになったため、スイスはドイツ軍の侵入を受けることはなかった。大戦末期、ドイツが連合軍からの自国防衛を図らなければならなくなると、ふたたび国境は緊張した。ドイツはスイスが連合国側についてスイス・ドイツ国境から連合国軍が攻撃しかけてくることを恐れ、先手をうってスイスを占領することを計画した。ギザンは、連合国に対しても厳正中立を守ることをドイツ側に約束し、ドイツ軍のスイス侵攻を回避した。こうして武装中立を維持することでスイスは第二次世界大戦でも直接戦火にさらされずに切り抜けることができた。<森田安一『同上書』 p.236-238>
中立の影の部分 第二次世界大戦中、枢軸国に囲まれたスイスでは、枢軸国、特に穀物輸入・工業製品の輸出というドイツとの貿易によって経済を維持せざるを得なかった。また、スイスにもドイツ占領地域からの大量のユダヤ人が亡命を求めたが、連邦政府は「救命ボートは満員だ」といって入国を認めなかった。国境警備の担当者の中には独自の判断でユダヤ人の亡命を認め、連邦法違反できびしく罰せられた者もいた、など、スイスの「中立の影の部分」があったことも、森田氏の著作では触れている。

国際連合とスイス

 第二次世界大戦中の1945年6月、連合国によって設立された国際連合には、スイスは加盟しなかった。中立を維持してたので連合国に加わっていなかったからである。またスイス国内でも、大戦前の歴史の教訓から、永世中立を守る道を選んだ。ジュネーヴには国際連合ヨーロッパ本部が置かれたにとどまった。戦後の米ソの二大陣営による冷戦時代には、スイスの中立政策は国際的にも評価され、ジュネーヴはしばしば東西間の交渉の場として提供された。ただし、スイスの原則と矛盾しない専門機関や委員会には部分的に参加していた。
 しかし、戦後35年が経過した1980年代、になるとヨーロッパ統合の動きが進み、冷戦構造も変質する中で、しだいに中立の意味は薄れていった。国際化の流れを読んだスイス連邦政府は、1981年、国際連合加盟は中立と矛盾しないと閣議決定し、連邦議会もそれを支持、国民投票にかけられることになった。十分な準備のもと、1986年に国民投票に委ねられたが、結果は圧倒的多数での否決(投票の75.7%、全カントンの反対)だった。1990年のイラクのクウェート侵攻に対しては非加盟国ながら対イラク経済制裁に参加している。91年には国連平和維持軍へのスイス軍参加を決めたが、これも94年の国民投票では否決され、実現しなかった。
 1989年の東欧革命、ベルリン壁の解放から、翌年のドイツ統一、91年の総連改称へと一気に進み、東西冷戦時代が終わったことは、スイスの完全中立の意味が無くなったことを意味していた。
国際連合への加盟実現 2002年3月3日、スイスの国連加盟の是非を問う国民投票が実施され、国民投票では賛成54.6%、カントンレベルは賛成12、反対11という僅差で加盟がようやく実現した。次の焦点はヨーロッパ連合(EU)への加盟問題となった。

EU加盟問題

 スイス連邦政府は、国連加盟への加盟を模索すると共に、ヨーロッパの統合の動きにも無関心では居られなかった。このままでは安全保障だけでなく、経済の面でもスイスが「ヨーロッパの孤児」になることを危惧したのだった。すでに1959年にはイギリスを中心としたヨーロッパ自由貿易連合(EFTA)に加盟していたが、主導権は土西ドイツ・フランスの主導するヨーロッパ共同体(EC)に移っていた。1992年には国際通貨基金(IMF)と国際復興開発銀行(IBRD)への加盟が国民投票で認められたので、一気にEC加盟をめざし、12月に国民投票にかけたところ、49.7%で否決されてしまった。問題はカントンの賛否の動向で、賛成はフランス語圏の6カントンだけだで、もともとカントンの自立志向の強いドイツ語圏ではすべて反対だったことである。
 現在は、1993年に発足したヨーロッパ連合(EU)への加盟を目指している。EUとの経済統合がスイス経済の発展にとって不可欠であると考える連邦政府の高官や政治家も多いが、スイスが「主権はカントンが享有する」という憲法の規定がどうしてもネックになっている。カントンの維持という保守派にとっては、EUに加盟すれば、EUの意志決定にはカントンは加われなくなることを恐れている。
 21世紀に入って、イギリスの離脱などEUそのものが大きく揺らぎ、イタリアやオーストリアでもEU離脱派が勢いを強めている。スイス連邦は統一国家をめざすのか、カントンの自治を優先するのか、常にに悩んできたという歴史があり、その面ではヨーロッパ統合はその拡大版であり、スイスが試みてきたことは、ヨーロッパ統合のミニ版だったという指摘もある。今後のEUの動向に、スイスの歴史という経験が活かされるのかどうか、注視していく課題であろう。
(引用)ヨーロッパ統合の試み自体は非常に小規模ながらスイスがおこなってきたことである。民族・言語・宗教・文化の相違をこえて、スイスは国家として最小限のまとまりを長い歴史のなかでつくりあげてきた。それを維持する仕組みがスイス独自の政治制度である。中立・地域主義・直接民主政などがそうである。ところが、まさにそれらの制度がEU加盟を阻害している。将来スイスがEUに加盟するにはそうしたスイス国家のアイデンティティを否定しなければならない可能性が高い。ここにスイスのEU加盟の困難さがあり、歴史を踏まえて将来をどう築くかのむずかしさもあるのである。<森田安一『スイス・ベネルクス史』世界各国史14 1998 山川出版社 p.153>

スイス(5) 現代のスイス連邦

2002年、国際連合に加盟したが、ヨーロッパ連合やNATOには加わらない、永久中立を維持している。

スイス国旗  アルプス山中にある小国で面積は九州よりやや大きい程度。人口は約750万。人口はベルン。国民は言語圏に別れておりその割合は、ドイツ語(63.7%)、フランス語(19.2%)、イタリア語(7.6%)、レート・ロマンシュ語(0.6%)、その他(8.9%)<外務省ホームページより>
 国号は日本ではスイス連邦(英語では Swiss Confederation、通称が Switzerland)であり、また憲法上の国名は中世以来の「スイス盟約者団」を名乗っている。スイスは因みに日本語では「瑞西」と表記する。

スイス国家の特徴

 スイスは典型的な小国であるが、ヨーロッパの中央に位置し、その長い歴史のなかで、独自の政治や文化を育ててきた。スイス国家の特徴的なあり方のいくつかを取り上げてみよう。なお、スイス憲法については、<美根慶樹『スイス 歴史が生んだ異色の憲法』2003 ミネルヴァ書房>を参照した。スイスがどのように中立政策を守ってきたか、中立政策と国際連合加盟、そしてEU加盟問題については、前項の近代のスイス連邦(武装中立の苦悩)を参照。
多言語 憲法ではドイツ語、フランス語、イタリア語、レート・ロマンシュ語(スイス東南部のイタリア国境の隣接地帯)の4語がいずれも「国語」であると規定され、「公用語」はドイツ語・フランス語・イタリア語が指定されていて、まったく平等に扱われている。
連邦制 まずスイスは連邦国家(主権を持つカントンの連邦)であることに注意。カントンとは、邦とか州とかの語をあてることもあるが、単なる地方行政区画、自治体というのではなく、スイス連邦憲法では「カントンは……主権を享有する」と定められている。連邦憲法の他に、各カントンは憲法を持っている(当然、連邦憲法に反するような規定は認められない)。現行の連邦憲法では26のカントンがあり、スイスはこのカントンの連邦なのである。連邦立法府は二院制で、人口比で選出される国民議会と、各カントン代表から構成される全カントン会議からなる。元首は連邦大統領であるが、国民の直接選挙ではなく、両議会の合同会議で選出される。連邦政府は外交を管轄するが、安全保障と国防は連邦とカントンが共同で行うことになっており、日本と最もちがうのは「公教育はカントンの権限である」と明記されていることだろう。その他、連邦とカントンの権限は細かに分担されている。そのため、スイス憲法は細部の規定を含む長いものになっている。
直接民主政 またスイスは直接民主政が発達しており、イニシアティブ(国民提案制度)レファレンダム(国民投票制度)が採用されている。イニシアティブもレファレンダムもカントンレベルでも連邦レベルでも行われており、国民が直接政治に関わる機会を多くしているが、連邦議会はやはり代議制であるので、完全な直接民主政とは言えず、半直接民主政、などと言われている。それでもイニシアティブやレファレンダムの制度も意識も希薄で参政権と言えば選挙のことしか思い浮かばない日本から見れば、直接民主政の精神が生かされている制度だと言える。
国民皆兵 1848年憲法では、第13条で「連邦は常備軍を保持することはできない」と規定し、第18条で「いずれのスイス人も防衛義務を負う」とあって、国民皆兵の徴兵制を採っている。つまりスイス連邦軍は非専業原則の民兵制であり、国民皆兵の原則によって組織されている。また徴兵もカントンごとに行われ、カントンからの派遣軍という形式をとっている。スイスでも軍備廃止の動きがある。1989年「軍隊なきスイスのためのグループ」が軍隊廃止を発議し、その国民投票が行われている。結果は賛成35.6で否決されたが、国民皆兵・武装中立は必ずしもスイス国民の絶対の信念ではなくなっている。兵役については、憲法では男子は義務、女子は希望による、となっており、兵役忌避は犯罪とされていたが、1992年には良心的兵役忌避に対して「非軍事的な代替勤務を定める」という憲法改正が82.5%の賛成で認められた。<森田安一『スイス・ベネルクス史』世界各国史14 1998 山川出版社 p.149-150>
※民間防衛 スイスには兵役の他に、42歳頃の兵役終了に法律上の兵役義務が続く52歳までの民兵制度がある。民兵は他国からの攻撃があった場合、市民生活を守るための活動をするのが義務で、自然災害への出動なども含まれる。冷戦時代の1960年代に民間防衛法が制定され、68年のソ連軍のチェコスロヴァキアへの介入(チェコ事件)の直後に、連邦政府は全家庭にその手引き書『民間防衛』を配布した。<美根慶樹『スイス 歴史が生んだ異色の憲法』2003 ミネルヴァ書房 p.188-9>
女性参政権の遅れ 意外なことに、スイスで女性参政権が認められたのは、第二次世界大戦後、かなり経った1971年のことであった。その理由は、スイスでは軍務につけないものには参政権はない、という思想があったためと思われる。厳しい闘いで独立を勝ち取り、独立後も周囲の強国に常に脅かされてきたスイスでは、武力で国を守るという信念は抜きがたいものだったようだ。重装歩兵となった男子のみが市民権を持っていた古代ギリシアのポリス民主政が、なんとスイスでは現代まで生きていたというわけだ。スイスでもようやく20世紀には女性参政権を認めよ、という声が上がりはじめ、1918年のゼネストで始めて具体的に掲げられ、その後もイニシアティヴ制度による提案が何度か行われたが国民的支持を集めることはなかった。第二次世界大戦後、しばらく経って1959年に連邦レベルの国民投票も行われたが、支持率は30%台にとどまっていた。しかし、60年代からカントンレベルで承認するところが現れ(フランス語圏が早かった)、71年2月の連邦レベルの国民投票(レファレンダム)で65.7%の賛成によってようやく承認された。

Episode スイス政治の「魔法の公式」

 スイス連邦政府の閣僚は国民議会の議席数に応じて配分されるが、1950年代から、急進民主党2人、キリスト教社会人民党2人、社会民主党2人、スイス人民党1人にほぼ固定されている。この2:2:2:1の比率は「魔法の公式」と呼ばれ、議席数が変動しても変わっていない。これはファシズムや戦争の脅威が迫る中、スイス連邦が意見の異なる政党でも挙国一致で政治にあたるという「合意民主主義」を大事にしてきたことによる、国民の絶妙なバランス感覚が働いたためと思われる。合意民主主義とは議会で単独過半数を取る政党でも必ず他の政党を閣内に入れて行政を行うというシステムのことで、少数意見を尊重するという民主主義の原則にもとずいている。多数党、あるいは連立多数党が「多数決こそが民主主義だ」といって少数党の反対を数で押し切ろうという日本の政治理念とは、同じ民主主義を標榜していても全くちがうことに驚かされる。<合意民主主義、魔法の公式については、森田安一『物語スイスの歴史』2000 中公新書 に詳しい。p.212,p.245>
※21世紀に入り、政党構成も従来の四大政党の枠が崩れ、閣僚構成の配分も変化している。

ヨーロッパにおけるスイス

 スイスが直接民主政と永世中立を守っている意味は、次のような説明がわかりやすい。
(引用)1291年、アルプスの三つの州の山岳民が、永続的な同盟を結びました。アルプスの大いなる山々を統べるスイス連邦の始まりです。住民は一人一票の民主主義の原則にもとづき、首長を選びました。首長には、国の統治について、住民すべてに説明する義務がありました。以来、スイスは平等と独立に基礎をおく国家になり、20世紀には、戦争に巻き込まれるかもしれない国家ブロックへの加入を拒否しました。スイスはその中立性ゆえに19世紀、あらゆる国の人にたいする国際的慈善組織である赤十字や、第一次世界大戦と第二次世界大戦に国際紛争を避けるために設立された国際連盟などの本拠地になりました。独立を守ろうという意思から、近年スイスはEU(ヨーロッパ連合)への加盟を拒否しました。しかしなおスイスはヨーロッパの中心でありつづけています。<ジャック=ル=ゴフ/川崎万里訳『子どもたちに語るヨーロッパ史』2009 ちくま学芸文庫 p.76>

NewS スイスで50万人の女性がストライキ

 2019年6月14日、スイス各地で計50万人の女性がストライキを決行、男女間の賃金格差や職場のハラスメント根絶を求めて声を上げた。スイスでは上述のように女性参政権の実現も1971年と遅く、1985年までは就職や銀行口座開設に夫の同意が必要とされるなど、女性の権利は弱かった。1991年に最初の女性ストがやはり50万人規模で行われ、ようやく1992年、憲法に男女平等が書き込まれた。しかし、2004年には産休が法制化されたが、民間企業での男女同一賃金は議会で否決され、女性の不満は高まっていた。今回の女性ストは1年前から準備され、参加者は「28年前の1991年ストの時と状況は変わっていない」と訴えている。女性の正規労働者の平均賃金は男性より18.3%も低く、また女性の半数超はパートタイムの低賃金と、老後の低年金に苦しんでいるという。<赤旗 2019/6/16 記事などによる> → swissinfo.ch 2019/6/17
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書籍案内

森田安一
『物語スイスの歴史』
2000 中公新書

古代から戦後まで、『物語』風の柔らかさは無いが、スイスという国家の成り立ちを考えるには示唆に富む、内容の濃い本。2002の国連加盟には及んでいない。

森田安一編
『スイス・ベネルクス史』
世界各国史14
1998 山川出版社

森田安一編
『スイス・ベネルクス史』
世界各国史14
1998 山川出版社

美根慶樹
『スイス 歴史が生んだ異色の憲法』
2003 ミネルヴァ書房

スイスの独立から2002年の国連加盟までをカバーし、歴史とその証しである憲法を説明する。2000年施行のスイス憲法も全文収録。

ジャック・ル・ゴフ
/川崎万里訳
『子供に語るヨーロッパ史』
2009 ちくま学芸文庫