印刷 | 通常画面に戻る |

エジプト=イスラエル平和条約

1979年3月に、調印されたエジプト(サダト大統領)とイスラエル(ベギン首相)の間で締結された平和条約。中東戦争を終わらせることとなったが、PLOは強く反発しエジプトと断交、中東情勢はかえって混迷の度合いを増した。

 1979年3月26日に調印された、エジプトイスラエルの平和条約。
 第二次世界大戦後にイスラエルが建国されてから、エジプトはアラブ諸国のリーダーとして立場からそれを認めることができず、4次にわたる中東戦争を繰り返してきた。その結果、イスラエルは建国時に比べて次々と領土を拡張していった。ナセルから代わったエジプトのサダト大統領は、第4次中東戦争で緒戦の勝利を占めたが、それも体勢を立て直したイスラエル軍に押され、シナイ半島の奪還はならなかった。
 そのような中、サダトはエジプトは戦争が財政を圧迫し続けていることから、イスラエルとの和平に転換する決意をし、またイスラエルもPLOとのゲリラ戦に苦しんでいたため、エジプトとの和平を望む気運が生まれていた。サダトは1977年に突然、イスラエルを訪問、エジプト=イスラエルの和平の交渉に入ることに踏み切った。
 1978年9月17日にはアメリカのカーター大統領の仲介で、エジプトのサダト大統領とイスラエルのベギン首相の間でキャンプデーヴィッド合意が成立、翌1979年にこの平和条約が調印された。これによってイスラエルはシナイ半島の返還を約束、両国間の大使の交換などが決定された。
 この条約は、イスラエルが和平を実現するために領土を返還したことから、「領土と和平の交換」と言われた。その後のパレスチナ問題の経緯は、和平の実現が常にパレスチナが占領している土地(領土)の返還と絡むこととなり、「領土と和平の交換」が交渉の焦点となっていった。

アラブ諸国とPLOの反発

 これに対して他のアラブ諸国は、エジプトがパレスチナ人を見殺しにして自国領だけを回復したとして反発を強め、エジプトは孤立した。結局、エジプトはアラブ連盟を脱退し、他のアラブ諸国とパレスチナ解放機構(PLO)はエジプトと断交した。このような情勢を受けてイスラエルはレバノン侵攻を開始し、結局この平和条約は中東和平を実現することはできなかった。 → パレスチナ問題
印 刷
印刷画面へ