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シナイ半島/シナイ半島返還

エジプトとパレスチナの間にある半島でその多くは砂漠であるが、中東戦争では争奪の場となった。エジプトの支配下にあったが、1967年の第3次中東戦争でイスラエルが占領、サダト大統領が奪還を目指して第4次中東戦争を起こすが反撃されて失敗。1979年にエジプト=イスラエル平和条約を締結したことによって、1982年にエジプトに返還された。

シナイ半島 GoogleMap

シナイ半島はスエズ運河イスラエルにはさまれ、地中海・紅海・アカバ湾にかこまれた地域。大部分が砂漠で、南部にユダヤ人が「出エジブト」の途中でモーセがヤハウェ神から「十戒」を授けられたというシナイ山がある。

第3次中東戦争でイスラエルが占領

 エジプト領であったが、1967年の第3次中東戦争イスラエル軍が電撃的に占領した。イスラエルのシナイ半島染料は、エジプトにとって大きな衝撃であっただけでなく、スエズ運河の航行に安全への脅威となるため、国際社会も強い懸念を持った。イスラエルは占領に二自国民を入植させ、実効支配を続けた。

第4次中東戦争、シナイ半島奪還できず

 エジプトのサダト大統領は、シナイ半島の奪還を周到に準備し、いるらえるの北側のシリアとの共同作戦を練り上げ、1973年10月6日、突如シナイ半島奪還の軍事行動を開始、第4次中東戦争となった。このエジプト・シリアの南北からの同時侵攻は、イスラエル軍にとって既習であったため、緒戦は敗北を喫した。イスラエル側がヨム=キプール戦争と呼んでいる戦争は、イスラエル軍が態勢を立て直して反撃に出ると、その機甲部隊(戦車)と空軍、ミサイル部隊での軍事力でエジプト軍を跳ね返し、ついに一部はスエズ運河を越えてエジプト領に侵入した。この戦争は、エジプト・シリアをソ連が、イスラエルをアメリカが支援する代理戦争という側面があったので、米ソ双方は戦争の拡大をさけるために双方に働きかけ、19日間で停戦が成立、結局、エジプトの支配半島奪還はできなかった。

シナイ半島返還

エジプト=イスラエル平和条約で返還

 第4次中東戦争で賜杯半島の奪還に失敗したエジプトのサダト大統領は、大きく方針を転換、武力による支配半島奪還を諦め、外交戦術をとることとし、アメリカの仲介によるイスラエルとの交渉に入った。その結果、1979年3月エジプト=イスラエル平和条約の締結にこぎ着け、シナイ半島は1982年にエジプトに返還されることになった。この方針転換は、アラブ・イスラエルの国家間戦争としての中東戦争を終わらせる歴史的な決断であったが、あくまでイスラエルからのパレスティナ解放をめざす勢力にとっては裏切りととられたため、シナイ半島返還を前にした1981年にサダト大統領は暗殺されてしまい、大統領はムバラクに交代した。

シナイ半島返還

 イスラエルのシナイ半島撤退には、国内でも強い反対があった。ベギン首相は、エジプトとの和平条約締結でサダトと共にノーベル平和賞を受賞していることもあって国際的約束となっていたため、予定通り1982年4月に返還(エジプト側からいえば奪還)を実行した。シナイのイスラエル人入植者は立ち退きを拒否したため、やむなくイスラエル国防軍を投入して強制立ち退きに踏み切った。
イスラエルのレバノン侵攻 イスラエル軍のシナイ半島撤退後、イスラエルとエジプトの関係は正常化したがパレスチナ解放機構(PLO)内部では武力闘争を続ける声が消えていなかった。レバノンのベイルートに拠点を移していたPLOは徐々に戦闘意欲を高め、レバノン内の拠点からイスライルに向けてミライルを撃ち込んだり、世界各地でイスラエル高官へのテロを実行するなど、活動を強めた。またレバノン内部では親イスラエルのキリスト教マロン派民兵組織(ファランジスト)がPLO拠点を攻撃するなど、不穏な動きが強まった。さらに隣国のシリアが介入し、PLOを支援し、ファランジスタの拠点を攻撃したことで、イスラエル軍も介入の口実を得たため、1982年6月レバノン侵攻(レバノン戦争)を開始した。
 イスラエルのベギン首相が、シナイ半島はエジプトに返還し平和を実現したのに、わずか2ヶ月後にレバノンに軍事侵攻をしたことに対し、国際社会での非難が巻き起こったが、ベギン首相は、シリアの介入を排除し、キリスト教マロン派(ファランジスト)を支援して、レバノンの平和を回復するための軍事作戦であると正当性を主張した。しかしこの進行中にファランジストによるパレスティナ人に対する虐殺行為が明るみに出て、イスラエル国内でも批判が強まり、ベギンはまもなく辞任した。
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