レバノン戦争/イスラエル軍のレバノン侵攻
1982年、イスラエル軍がレバノンの国境を越えて侵攻、ベイルートなどのPLO拠点を攻撃、ベッカー盆地ではPLOを支援するシリア軍とも交戦した。イスラエル軍がシリア軍との戦闘に勝利、PLOはチュニジアに拠点を移した。イスラエルは85年からレバノン南部に進駐を続けたが、2000年に撤退した。イスラエル軍が国境を越えてレバノンに侵攻し、シリア軍、PLOとの戦闘が行われたので、レバノン戦争、または第5次中東戦争とも言われている。
この出来事は一般に「イスラエルのレバノン侵攻」と言われ、イスラエルによるゲリラ組織PLO排除の軍事行動と取られることが多いが、PLOは事実上パレスチナ人民を代表する国家として行動しており、イスラエル=PLOの国家間戦争と捉えるることも出来る。なによりもレバノンという主権国家の領土内に侵攻し、同時に侵攻したシリアとの大規模な戦闘も行っているので、国家間の戦争、つまりレバノン戦争というべきであり、あるいは第5次中東戦争ともいうべき事態であった。
→ パレスチナ問題/中東問題(1940~60年代)
レバノン情勢の緊迫
第4次中東戦争でエジプトがシナイ半島奪還に失敗し、サダト大統領がイスラエルとの和平路線に大きく舵を取ったと事を受け、イスラエルのベギン首相との間では1979年にエジプト=イスラエルの和平が実現した。ベギンはその約束に基づいてシナイ半島を1982年までに返還を実行した。これによって中東情勢の安定化が期待されたが、ベギンはイスラエル南部での戦闘の必要がなくなると、その北部のレバノンを拠点とするパレスチナ解放機構(PLO)とそれを支援するシリア(アサド政権)との対応に迫られることになった。レバノン南部を拠点とするパレスチナ解放機構(PLO)アラファト議長は、エジプト・イスラエルの和平に強く反発し、1981年にはイスラエル領のガリラヤ地方に向けてのミサイル攻撃を開始した。一方、親イスラエルのキリスト教マロン派民兵組織(ファランジスト)とPLOとのレバノン内戦が続いており、隣国のシリアのアサドは積極的にPLO支援で介入していた。<ハイム・ヘルツォーグ/滝川義人訳『図解中東戦争:イスラエル建国からレバノン進攻まで』原書房>
イスラエルのレバノン侵攻 レバノン戦争開始
エジプトとの和平を実現したベギンは、北部に於ける安定も実力で実現しようと意図し、レバノンのPLOとそれを支援するシリア軍を一挙につぶそうと、1982年6月、陸上部隊をレバノンに侵攻させた。イスラエルはこの戦争を「ガリラヤの平和」作戦と名付けた。当時、イラン=イラク戦争や、フォークランド戦争の最中で世界のパレスチナに対する関心が薄れたことを狙ったものであった。この軍事作戦を指揮したのがシャロン将軍(のちの首相)であった。
ベイルートのPLO拠点を空爆 イスラエル軍の軍事行動は当初の目標のレバノン南部を制圧するに留まらず、首都ベイルートを激しく空爆、またパレスチナ側を支援したシリア空軍をベッカー渓谷(盆地)で一方的に攻撃した。6月初めに始まった戦闘では、イスラエル軍はクラスター爆弾(触れただけで爆発する)などの最新兵器を投入、国連の停戦勧告にもかかわらず8月まで戦闘を続け、ベイルートは瓦礫と化してしまった。
ベッカー渓谷の戦闘 シリア軍は、レバノンのベッカー渓谷(盆地)に第4次中東戦争当時以上の破壊力を持つ地対空ミサイルシステムを備えていた。イスラエル空軍は偵察機とドローンを使ってミサイルとその防衛システムの映像を入手し、まずレーダー装置を破壊してから空軍がミサイル本体を爆撃・破壊した。シリアがベッカー盆地で設置した地対空ミサイルシステムは、ソ連製であったので、それが破壊されたことはソ連にとっても大きな衝撃であった。ここでソ連製ミサイルシステムがイスライル空軍によって破壊されたことは、ソ連が西側との武力対決を避け、東西冷戦の緩和にむかうきっかけになったと言われている。<長谷部恭男『戦争と法』p.108>
PLOのチュニス退去
イスラエル軍の猛攻が続くと、レバノン内部からもその要因となっているPLOに対して退去を求める声が強くなり、結局9月1日までにすべてのPLO部隊はレバノンを離れ、アラファトもチュニスに退去した。イスラエルは戦争の目的であったPLOの排除に成功したが、この戦争の犠牲者は、死者1万9085人、負傷者3万302人、孤児となった子供約6000人、家を失った人約60万人。<広河隆一『パレスチナ(新版)』2005 岩波新書 p.79>マロン派民兵の残虐行為
この時のイスラエル軍とそれに協力したキリスト教マロン派民兵組織ファランジスト(ファランヘ党)が、ベイルート郊外のパレスチナ人難民キャンプで非戦闘員を虐殺する行為を行った。マロン派とイスラーム教徒であるパレスチナ難民の対立は、レバノン内戦として続いていたが、特に1982年のマロン派による残虐行為は国際的な非難がわき起こった。イスラエル国内でも指導部の強硬姿勢への批判が強まり、ベギン首相とシャロン国防相は辞任に追い込まれた。<広河隆一『パレスチナ(新版)』2005 岩波新書 p.79>この時起こったマロン派キリスト教徒(ファランジスト)によるパレスチナ難民に対する虐殺行為は、それに加担した形となったイスラエルに、いまだに負の記憶として重くのしかかっているようだ。2000年代に入ってイスラエルで作られた二本の映画『レバノン』と『戦場でワルツを』でもレバノンの記憶が重く語られている。ただ何れも悪いのはマロン派でイスラエルはそれに加担してしまったに過ぎないという言い逃れめいた基調が気になるが・・・。
9.11の遠因となったレバノン侵攻
9.11同時多発テロの後に、アルカーイダのビンラディンらが犯行声明の中でアメリアに対する憎しみとして挙げていることは、湾岸戦争の際にアメリカ軍がイスラームの聖地アラビアを軍靴で汚したこととともに、このイスラエル軍のレバノン侵攻の際のベイルート爆撃で多数のアラブ市民が殺害されたことをあげている。現在に続くイスラーム過激派の反イスラエル感情の出発点となっていることはたしかなようだ。2006年のレバノン侵攻
イスラエルはその後も駐留を続けたが、1990年にはシリア軍が侵攻し、さらにレバノン国内のイスラーム教シーア派民兵組織ヒズボラが力を強めてイスラエル兵の死者が増加しため2000年5月に撤退した。ヒズボラはまさに1982年のイスラエル軍のレバノン侵攻に対する抵抗するなかで生まれた民兵組織であった。その後、2006年7月にはヒズボラがイスラエル兵を拉致したことをきっかけに、イスラエル軍は再びレバノンに侵攻した。イスラエル軍は南部のヒズボラ支配地域の発電所などを空爆した以外にもベイルート空港を空爆、港を封鎖した。しかしレバノン軍は全面的な反撃をせず、国連安保理の停戦決議を受け容れてイスラエル軍は10月に撤退した。