イスラエル軍のレバノン侵攻
1982年、イスラエル軍がレバノンの国境を越えて侵攻、ベイルートなどのPLO拠点を攻撃した(レバノン戦争、第5次中東戦争とも言われた)。その結果、PLOはチュニジアに拠点を移した。イスラエルは85年からレバノン南部に進駐を続けたが、2000年に撤退した。
イスラエルの狙い
イスラエルのベギン首相は1979年にエジプト=イスラエルの和平を実現し南部での戦争の危惧を無くした上で、北部のレバノンを拠点とするパレスチナ解放機構(PLO)を一挙につぶそうと、1982年、「ガリラヤの平和」作戦と称して陸上部隊をレバノンに侵攻させた。当初の目標のレバノン南部を制圧するに留まらず、レバノンの首都ベイルートを激しく空爆、またパレスチナ側を支援したシリア空軍を一方的に攻撃した。当時、イラン=イラク戦争や、フォークランド戦争の最中で世界のパレスチナに対する関心が薄れたことを狙ったものであった。この軍事作戦を指揮したのがシャロン将軍(のちの首相)であった。
レバノン戦争、第5次中東戦争ともいう
これはPLOをパレスチナ人の国家と捉えれば、イスラエル=PLOの国家間戦争であり、レバノン戦争、あるいは第5次中東戦争ともいうべき事態であった。6月初めに始まった戦闘では、イスラエル軍はクラスター爆弾(触れただけで爆発する)などの最新兵器を投入、国連の停戦勧告にもかかわらず8月まで戦闘を続け、ベイルートは瓦礫と化してしまった。PLOのチュニス退去
レバノン内部からもPLOに対して退去を求める声が強くなり、結局9月1日までにすべてのPLO部隊はレバノンを離れ、アラファトもチュニスに退去した。この戦争の犠牲者は、死者1万9085人、負傷者3万302人、孤児となった子供約6000人、家を失った人約60万人。<広河隆一『パレスチナ(新版)』2005 岩波新書 p.79>マロン派民兵の残虐行為
この時のイスラエル軍とそれに協力したキリスト教マロン派民兵組織ファランジスト(ファランヘ党)が、ベイルート郊外のパレスチナ人難民キャンプで非戦闘員を虐殺する行為を行った。マロン派とイスラーム教徒であるパレスチナ難民の対立は、レバノン内戦として続いていたが、特に1982年のマロン派による残虐行為は国際的な非難がわき起こった。イスラエル国内でも指導部の強硬姿勢への批判が強まり、ベギン首相とシャロン国防相は辞任に追い込まれた。<広河隆一『パレスチナ(新版)』2005 岩波新書 p.79>この時起こったマロン派キリスト教徒(ファランジスト)によるパレスチナ難民に対する虐殺行為は、それに加担した形となったイスラエルに、いまだに負の記憶として重くのしかかっているようだ。2000年代に入ってイスラエルで作られた二本の映画『レバノン』と『戦場でワルツを』でもレバノンの記憶が重く語られている。ただ何れも悪いのはマロン派でイスラエルはそれに加担してしまったに過ぎないという言い逃れめいた基調が気になるが・・・。
9.11の遠因となったレバノン侵攻
9.11同時多発テロの後に、アルカーイダのビンラディンらが犯行声明の中でアメリアに対する憎しみとして挙げていることは、湾岸戦争の際にアメリカ軍がイスラームの聖地アラビアを軍靴で汚したこととともに、このイスラエル軍のレバノン侵攻の際のベイルート爆撃で多数のアラブ市民が殺害されたことをあげている。現在に続くイスラーム過激派の反イスラエル感情の出発点となっていることはたしかなようだ。2006年のレバノン侵攻
イスラエルはその後も駐留を続けたが、1990年にはシリア軍が侵攻し、さらにレバノン国内のイスラーム教シーア派民兵組織ヒズボラが力を強めてイスラエル兵の死者が増加しため2000年5月に撤退した。ヒズボラはまさに1982年のイスラエル軍のレバノン侵攻に対する抵抗するなかで生まれた民兵組織であった。その後、2006年7月にはヒズボラがイスラエル兵を拉致したことをきっかけに、イスラエル軍は再びレバノンに侵攻した。イスラエル軍は南部のヒズボラ支配地域の発電所などを空爆した以外にもベイルート空港を空爆、港を封鎖した。しかしレバノン軍は全面的な反撃をせず、国連安保理の停戦決議を受け容れてイスラエル軍は10月に撤退した。