ハマス
パレスチナのイスラーム原理主義政治集団。ムスリム同胞団を母体として急成長、イスラエルとの全面対決を主張し、ヨルダン川西岸のPLO主流派ファタハと対立、2006年にパレスチナ自治区の総選挙で第1党となり、ガザ地区を実効支配した。経済封鎖状態にあるガザ地区の解放を目指し、度々イスラエルをロケット弾などで攻撃、イスラエルが報復するという戦争状態にある。
ハマス(ハマースとも表記する)とは、「イスラーム抵抗運動」を意味するアラビア語の略称。1987~88年にパレスチナで起こった自然発生的な民衆運動であるインティファーダが高揚する中で、ムスリム同胞団の流れをくむイスラーム原理主義者が中心となって結成された。ハマスは、それまでパレスチナ独立運動を牽引していたパレスチナ解放機構(PLO)の主流派ファタハのアラファトが、非宗教的な民主国家の建設を目ざしたのに対して、イスラーム教の『クルアーン』に示された原理を実現させる、イスラーム国家としてのパレスチナの建設を目ざし、イスラエルに対する聖戦(ジハード)を掲げている。PLOが結局はイスラエルと妥協し、共存する道を選んだのに対して、パレスティナの完全な解放、つまりイスラエルの消滅を究極の目的として戦う姿勢を続けている。 → パレスチナ問題(1990年代)
自爆テロの開始 4月6日、イスラエル北部の町のバス停で停車中のバスに突っ込んだ乗用車が爆発、子どもを含む7人が死んだ。ハマスは19歳のパレスチナ人青年による自爆テロであると犯行声明を出し、さらに13日にもバスを爆破させる自爆テロを実行した。これ以降、ハマスは「自爆テロ」を新たな戦術として多用するようになり、1990年代後半のパレスチナはまさに自爆テロが相次ぐ凄惨な状況となった。
自爆テロを実行したのはハマスの軍事部門で「イゼディン・アル・カッサム」旅団と呼ばれた。少人数からなる「細胞」の集合体で作戦の全体は最高幹部にしか分からないしくみになっている。隊員はモスクやマドラサでリクルートされ、アラブの大義に殉ずる決意をもったものから選ばれた。1991年頃から活動を介しており、イスラエルのラビン首相は危険視してハマス活動家約400人をレバノンに追放したが、そのとき接触したヒズボラから自爆テロの手法を学んだと言われている。ハマスの政治部門は、軍事部門とは別で自爆テロ攻撃とは無関係であると声明を出したが、カッサム旅団もハマス指導者ヤシン師を尊敬していることに変わりはない。<船津靖『パレスチナ――聖地の戦争』2011 中公新書 p.75>
第2次インティファーダ イスラエルの急進派リクードの党首シャロンは、国民の反パレスチナ感情をあおり、政権を獲得しようとして2000年9月にイェルサレムのイスラーム教の神殿の丘に立ち入りった。それに対してパレスチナ人による抗議運動である第2次インティファーダが起こった。第一次と同じように民衆の自然発生的な蜂起として始まったが、ハマスはこの民衆運動を武装闘争へと指導し、ロケット弾などを使ってイスラエルを攻撃するという戦術のエスカレートを図るようになった。
アメリカはテロの温床と考えた中東の安定を図るため、パレスティナ問題の包括的解決に向けて、アメリカ・EU・ロシア・国連の四者の合意によるロードマップ作成を提唱、イスラエルとパレスチナも話し合いに加わることになったが、アメリカはパレスチナ代表としてPLOのアラファトを拒否した。イスラエルのシャロン政権は、この提案に同調して和平路線に転じ、2005年8月にガザ地区からの入植者と軍隊の撤退を実行した。
ガザ地区ではイスラエルは撤退したが、経済的な孤立状態に置かれ、苦境が深まった。その中では枡は、イスラエルを撤退させたことを自派の成果として宣伝し、同時に貧困に苦しむガザの民衆に対する医療、教育などの生活支援に乗り出し、支持を強めていった。
ファタハはハマスとの連立政権樹立を働きかけたが決裂し、3月、ハマスはガザのイスラム大学元学長のイスマイル・ハニヤを自治政府首相とする内閣を発足させた。アメリカ・ヨーロッパ連合・ロシア・国連の四者はハニヤ首相にイスラエル承認、武力闘争放棄、オスロ合意後の和平協定承認を条件に援助を申し入れたが、拒否されたため援助は打ち切られた。
シーア派の支援 ガザにイスラーム原理主義政権が樹立されたことにイスラエルは衝撃を受け、障壁を設けて防御を固めると共に、ガザとの経済関係を遮断して孤立化を狙った。それに対して、イランはハマス支援を表明、またレバノンの反政府シーア派武装組織のヒズボラや、イエメンの同じくシーア派民兵組織フーシも同調した。なおガザ地区のハマスと「イスラーム聖戦」と名乗る原理主義集団はともにスンナ派であるが、イランの影響下にあるアラブ諸国のシーア派は、イスラエルのシオニズムとの戦いという立場から、ハマスを支援している。PLO主流派を自認するファタハは、イスラーム原理主義とは一線を画して世俗主義に基づく民族解放を掲げている。
イスラエル側はこの攻撃を予測していなかったようで、ガザ地区のすぐ近くでは音楽フェスティバルが行われており、ハマスの戦闘員はそこを襲撃し、多数のユダヤ人やアメリカ人などを人質として連行した。これらの映像が世界中に流れ、ハマスの奇襲でイスラエル側に多数の犠牲が出たこと、また人質を連行するという非人道的な行為に対する非難が強まった。イスラエルではネタニヤフ首相がハマスの奇襲に備えていなかったことに疑問がだされたが、首相はただちに野党を協力を呼びかけて戦時挙国内閣を組織、ミサイルで反撃すると共に地上軍を境界線に集結させて反撃の態勢を取った。アメリカのバイデン大統領はただちにイスラエルを訪問、支持を打ち出し、直前に起こったガザの病院爆破で多数の犠牲者が出たことをハマス側の責任であると非難した。国内では議会でウクライナとイスラエル支援はアメリカの使命であるとして軍事費の支出増を訴えた。また国連安全保障理事会では停戦決議に対して拒否権を発動した。バイデン大統領にとってアメリカ国内のユダヤ系市民の支持を失いたくないという思いと、イスラエルのガザ侵攻を認めて犠牲者が増大することも避けなければならないというジレンマに陥っている。<2023/10/20 記>
パレスチナ暫定自治政府の発足
1993年9月のオスロ合意に基づき、1994年5月にパレスチナ暫定自治行政府が成立、ヨルダン川西岸とガザ地区でのパレスチナ自治が開始された。パレスティナ人の代表としてPLOが実体として統治にあたることとなり、PLOの主流派を構成していたアラファトらファタハ幹部はチュニスからパレスティナに戻った。ところがファタハなどの帰還組(アウトサイダー)は、パレスティナに残っていた地元組(インサイダー)を軽視し、アラファトを中心とした幹部が非民主的な政権運営を行い、汚職・腐敗が蔓延するという事態となり、若い世代を中心にアラファト=ファタハに対する批判が強まった。そのようなPLO=アラファト=ファタハ体制に代わって民衆の支持を受けるようになったのがハマスであった。オスロ合意反対を表明
オスロ合意は成立したものの、パレスチナ和平はたちまち暗礁に乗り上げた。パレスチナではファタハに代わって台頭したハマスは、イスラーム原理主義に忠実でイスラエルとの妥協(二国家共存)を拒み、それとの戦いを「聖戦」と捉えてテロを繰り返した。イスラエル側にもシオニスト急進派の流れをくむ右派はオスロ合意に強く反発し、パレスチナ人の排除を講和高に主張するようになった。早くも1994年2月25日にはヨルダン川西岸のヘブロンのイブラヒム・モスクで礼拝中のパレスチナ人がユダヤ教急進派のユダヤ人に襲撃され自動小銃で29人が殺害されるという事件が起こり、怒ったパレスチナ人とイスラエル軍が衝突した。ハマスは反撃を表明し、オスロ合意後の和平交渉反対を鮮明にした。PLOアラファトも和平交渉を中断せざるを得なくなった。自爆テロの開始 4月6日、イスラエル北部の町のバス停で停車中のバスに突っ込んだ乗用車が爆発、子どもを含む7人が死んだ。ハマスは19歳のパレスチナ人青年による自爆テロであると犯行声明を出し、さらに13日にもバスを爆破させる自爆テロを実行した。これ以降、ハマスは「自爆テロ」を新たな戦術として多用するようになり、1990年代後半のパレスチナはまさに自爆テロが相次ぐ凄惨な状況となった。
自爆テロを実行したのはハマスの軍事部門で「イゼディン・アル・カッサム」旅団と呼ばれた。少人数からなる「細胞」の集合体で作戦の全体は最高幹部にしか分からないしくみになっている。隊員はモスクやマドラサでリクルートされ、アラブの大義に殉ずる決意をもったものから選ばれた。1991年頃から活動を介しており、イスラエルのラビン首相は危険視してハマス活動家約400人をレバノンに追放したが、そのとき接触したヒズボラから自爆テロの手法を学んだと言われている。ハマスの政治部門は、軍事部門とは別で自爆テロ攻撃とは無関係であると声明を出したが、カッサム旅団もハマス指導者ヤシン師を尊敬していることに変わりはない。<船津靖『パレスチナ――聖地の戦争』2011 中公新書 p.75>
和平遠のく
またイスラエル側では和平を推進したラビン首相が1995年11月4日にユダヤ教急進派に暗殺され、労働党政権は和平交渉を継続したが、リクードなどは和平反対を主張し、和平路線は危機に陥った。第2次インティファーダ イスラエルの急進派リクードの党首シャロンは、国民の反パレスチナ感情をあおり、政権を獲得しようとして2000年9月にイェルサレムのイスラーム教の神殿の丘に立ち入りった。それに対してパレスチナ人による抗議運動である第2次インティファーダが起こった。第一次と同じように民衆の自然発生的な蜂起として始まったが、ハマスはこの民衆運動を武装闘争へと指導し、ロケット弾などを使ってイスラエルを攻撃するという戦術のエスカレートを図るようになった。
PLOの後退
2001年、同時多発テロが発生すると、アメリカは「テロとの戦争」を大きな国家目標に掲げ、アフガニスタン侵攻さらにイラク戦争へと突き進んだ。世界の耳目はイラクとアフガニスタンに移ったが、この間のパレスチナではリクードのシャロン政権が「テロとの戦争」に同調しててパレスチナ自治区に侵攻して、テロの根源を絶つという名目でヨルダン川西岸のPLOアラファト議長を軟禁状態においた。アメリカはテロの温床と考えた中東の安定を図るため、パレスティナ問題の包括的解決に向けて、アメリカ・EU・ロシア・国連の四者の合意によるロードマップ作成を提唱、イスラエルとパレスチナも話し合いに加わることになったが、アメリカはパレスチナ代表としてPLOのアラファトを拒否した。イスラエルのシャロン政権は、この提案に同調して和平路線に転じ、2005年8月にガザ地区からの入植者と軍隊の撤退を実行した。
ガザ地区ではイスラエルは撤退したが、経済的な孤立状態に置かれ、苦境が深まった。その中では枡は、イスラエルを撤退させたことを自派の成果として宣伝し、同時に貧困に苦しむガザの民衆に対する医療、教育などの生活支援に乗り出し、支持を強めていった。
選挙での政権獲得
2006年1月25日のパレスチナ自治区の総選挙(パレスチナ評議会の選挙)で、ハマスはPLO主流派のファタハに代わって第1党となった。議席定数132のうち、74議席を獲得、自治政府議長アッバスの率いるファタハは45議席にとどまった。アメリカのブッシュ政権は、「中東民主化」を掲げてハマスの選挙参加を支持していたが、イスラエル国家を認めず、聖戦(ジハード)を公言するイスラーム組織が民主的な選挙で選出されたことは大誤算であり、困惑した。ファタハはハマスとの連立政権樹立を働きかけたが決裂し、3月、ハマスはガザのイスラム大学元学長のイスマイル・ハニヤを自治政府首相とする内閣を発足させた。アメリカ・ヨーロッパ連合・ロシア・国連の四者はハニヤ首相にイスラエル承認、武力闘争放棄、オスロ合意後の和平協定承認を条件に援助を申し入れたが、拒否されたため援助は打ち切られた。
ガザ地区を武力制圧 パレスチナの分裂
ハマス内閣の発足後、ガザ地区ではアッバスとハニヤの双方の治安部隊がにらみ合い、死者の出る銃撃戦が散発的に起きた。2007年6月10日、ハマス、ファタハがそれぞれ相手の部隊員をビルの高層階から投げ落として殺害するなど対立が激化、全面衝突に発展した。アッバス議長は同日、事情事態を宣言してハニヤ首相を解任、翌日にファイヤド前財務相を新首相に指名した。国際社会は経済学博士で世界銀行や国際通貨基金に勤務した経験のある新首相を歓迎、全面支援した。しかし、ハマスはガザ地区を制圧、ファタハ幹部はヨルダン川西岸に退去し、パレスチナは、ファタハのヨルダン川西岸とハマスのガザ地区とに分裂してしまった。<船津靖『パレスチナ――聖地の紛争』2011 中公新書 p.243-245 などによる>シーア派の支援 ガザにイスラーム原理主義政権が樹立されたことにイスラエルは衝撃を受け、障壁を設けて防御を固めると共に、ガザとの経済関係を遮断して孤立化を狙った。それに対して、イランはハマス支援を表明、またレバノンの反政府シーア派武装組織のヒズボラや、イエメンの同じくシーア派民兵組織フーシも同調した。なおガザ地区のハマスと「イスラーム聖戦」と名乗る原理主義集団はともにスンナ派であるが、イランの影響下にあるアラブ諸国のシーア派は、イスラエルのシオニズムとの戦いという立場から、ハマスを支援している。PLO主流派を自認するファタハは、イスラーム原理主義とは一線を画して世俗主義に基づく民族解放を掲げている。
ガザ封鎖とハマスの反撃
国際社会はイランなどを除き、ハマスを過激なテロ集団と判断して批判が強まったことを背景に、2006年以降、イスラエル政府はガザ地区の経済制裁を発動した。そのためガザ地区では物資不足による生活困難に直面したが、エジプトとの国境に地下トンネルを掘って物資を調達するようになった。このような状況にもかかわらず、ガザ地区のハマスはイスラエルに対する徹底的な闘いを挑み、イスラエル人に対する自爆テロも辞さず、またミサイルを発射してイスラエルの都市を攻撃、さらに境界線を越える地下トンネルを掘ってゲリラをイスラエル領内に侵入させると言った戦術を採っている。民衆の支持
ハマスは過激なイスラーム原理主義集団で武装テロ集団としか見えないが、実際にはそのような理解は当てはまらないようだ。ハマスはもともとムスリム同胞団の流れをくんでおり、彼らは教育や医療、貧困の救済、職業訓練、奉仕などのイスラーム教の理念である助け合いを実践する団体であり、その活動は現在でも続いている。その活動が、政争に明け暮れたPLOに飽き足らないパレスティナの民衆に強く支持されていたのだった。ガザ戦争
2008年12月、イスラエルは1週間にわたってガザ地区に対して空爆を行い、翌年1月から地上侵攻作戦を開始した。ハマスのロケット砲撃に反撃し、イスラエル南部の安全を確保し、同時にハマスのテロ活動を根絶するということが攻撃の理由とされた。それに対してハマスは、軍事部門カッサーム隊を中核に武装勢力1万5千が地下壕に潜ってイスラエル軍と戦い、損害を与えた。またハマスはこの戦争を、ガザを拠点に西岸地区の占領を終結させ、パレスティナを解放する戦略と位置づけ、穏健派ファタハ主導の中東和平交渉が欺瞞であることを国際的に明らかにしようとした。ハマスの主張 「一国家共存」
2008年1月28日夜、ガザ市街の中心部にあるイスラム大学がイスラエルの空爆によって破壊された。この大学はハマスの最高指導者で、小児科医でもあったタンティシ博士(2004年イスラエル軍によって暗殺された)が教鞭を執っていたハマスの牙城の一つだった。ジャーナリスト森戸氏は3月、同大学の理事ジャミラ・シャンティにインタビューして、ハマスの考えを聞いた。彼女は、日本や米国など国際社会がガザ復興援助の条件として要求する「二国家共存」構想について、それはイスラエル建国時のパレスチナ人の破局(ナクバ)がくり返されるだけだ、として反発し、ハマスが目指すパレスチナ問題の解決策は何かという問に対して「私たちは20年前の創設以来、1948年のパレスチナ分割決議に定められたパレスチナの全域にイスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒が仲良く平和に共存するイスラム国家を樹立する目標は変わりません」と、「一国家共存」構想を提唱した。<森戸幸次『中東和平構想の現実―パレスチナに「二国家共存」は可能か』2011 平凡社新書 p.129-130>イスラエルとガザ再び戦火
2021年5月には、イスラエル政府がラマダンに合わせてイェルサレムのモスクへの通路を封鎖したことからパレスチナ人が反発、衝突が起こった。これに対してガザ地区のハマスが抗議し、イスラエル側にロケット弾を発射、イスラエルも報復してガザ地区を空爆するという衝突が繰り返された。この衝突は新型コロナウィールスによるパンデミックに苦しむ世界から、軍事行動を批判する声が上がり、エジプトの仲介もあって、6月には停戦となった。NewS ガザ戦争の再開
ロシアのウクライナ侵攻から始まったウクライナ戦争に世界の耳目が集まり続けていた2023年10月7日、突如、ハマスはガザ地区の拠点からミサイルをイスラエルに撃ち込み、同時に張り巡らされた壁をトラクターで破壊したり、あるいはパラグライダーなどを駆使してイスラエルに侵攻した。この日は1973年の第4次中東戦争で、エジプト軍がイスラエルに対する奇襲に成功した日の翌日に当たっており、50年という節目の年であった。イスラエル側はこの攻撃を予測していなかったようで、ガザ地区のすぐ近くでは音楽フェスティバルが行われており、ハマスの戦闘員はそこを襲撃し、多数のユダヤ人やアメリカ人などを人質として連行した。これらの映像が世界中に流れ、ハマスの奇襲でイスラエル側に多数の犠牲が出たこと、また人質を連行するという非人道的な行為に対する非難が強まった。イスラエルではネタニヤフ首相がハマスの奇襲に備えていなかったことに疑問がだされたが、首相はただちに野党を協力を呼びかけて戦時挙国内閣を組織、ミサイルで反撃すると共に地上軍を境界線に集結させて反撃の態勢を取った。アメリカのバイデン大統領はただちにイスラエルを訪問、支持を打ち出し、直前に起こったガザの病院爆破で多数の犠牲者が出たことをハマス側の責任であると非難した。国内では議会でウクライナとイスラエル支援はアメリカの使命であるとして軍事費の支出増を訴えた。また国連安全保障理事会では停戦決議に対して拒否権を発動した。バイデン大統領にとってアメリカ国内のユダヤ系市民の支持を失いたくないという思いと、イスラエルのガザ侵攻を認めて犠牲者が増大することも避けなければならないというジレンマに陥っている。<2023/10/20 記>