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バングラデシュ

1971年、東パキスタンがバングラデシュ人民共和国として独立。それを支援したインドとパキスタンの間で第3次インド=パキスタン戦争となる。パキスタンから同じイスラーム教国が分離したこでと南アジア情勢に強い影響を与えた。

バングラデシュ GoogleMap

 1971年4月17日パキスタンの国土の中で離れていた東パキスタン(ベンガル地方)が、バングラデシュ人民共和国として独立を宣言。既に3月に独立宣言をしていたが、パキスタン政府はそれを認めず、内戦状態が深まる中、パキスタンと対立していたインド政府がバングラデシュ独立を支援、1971年12月、第3次インド=パキスタン戦争となった。インドが戦いを優位に進めるなかで、バングラデシュの分離独立が確定、バングラデシュの独立が承認された。

パキスタンの東西分裂

 1947年、インドと同時に分離独立したパキスタンは、インダス川流域の西パキスタンと、ガンジス川下流のベンガル地方を主とした東パキスタンの東西に国土が離れていた。両者を結びつけていたのは、イスラーム教徒が大部分を占めると言うことであり、ヒンドゥー教徒主体のインドと異なるという点のみであった。インドとパキスタン両国はカシミール帰属問題をめぐって厳しく対立し、パキスタンにとっては東パキスタンはインドを挟撃できる位置にあり、不可欠と考えられていた。
 しかし、東西のパキスタンは、使用言語も異なり、遠く離れていたことから、次第に意思疎通を欠くようになった。また政治的に西パキスタンが優位であったため、反発した東パキスタンのなかに、「自分たちはパキスタン人ではなくベンガル人である」という意識が強まり、分離独立運動が起こった。インドはその運動をパキスタンの弱体化につながるとして積極的に支援するようになった。

アワミ連盟の結成

 そのような東パキスタン=ベンガル地方の民族意識を背景に1949年にアワミ連盟 Awami League(AL) が結成され、その党首ムジブル=ラフマンが民族指導者として台頭した。「アワミ」とはベンガル語で「人民の」を意味する。パキスタンのウルドゥー語公用語指定に反発してベンガル語使用を主張した民族主義政党であり、インド・ネルー政権とも近く、社会主義に傾斜した。また人口では西パキスタンより多い東パキスタンが、そのベンガル地方のジュートの輸出で得た外貨を西パキスタンに吸い上げられる構造に不満を表明した。

バングラデシュの独立戦争

 1970年の選挙でアワミ連盟が圧勝(西パキスタンでも野党パキスタン人民党が勝った)すると、パキスタンのヤヒヤー=ハーン軍部政権はアワミ連盟を弾圧しムジブル=ラフマンを逮捕した。アワミ連盟は独立を表明、反対派との内戦となり、パキスタン軍事政権もただちに弾圧を開始した。1971年4月17日、パキスタンから独立しバングラデシュ人民共和国の設立を宣言したが、一進一退のゲリラ戦が続き、多数の難民が発生してインドに流れ込んだ。そのような状況の中で、インドのインディラ=ガンディー政権は東部パキスタン支援を表明、軍事援助を開始した。
第3次インド=パキスタン戦争 このためインドとパキスタンの関係が悪化し、1971年12月3日、第3次インド=パキスタン戦争が勃発した。インドは優勢に戦いを進め、12月6日にインドはにはバングラデシュを承認、西部パキスタンで監禁されていたムジブル=ラフマンが解放されて帰国し、初代大統領に就任した。

バングラデシュ人民共和国

 首都はダッカ。人口は約1億5千万。国土は日本の約4割。言語はベンガル語で、大部分がイスラーム教徒。少数のヒンドゥー教徒、仏教徒、キリスト教徒も存在する。政体は一院制の共和政で、大統領を元首とする。
 国旗は緑地に赤丸で「日の丸」に似ている。赤い丸は太陽を象徴すると共に、独立戦争を闘った民衆の血潮を思わせ、背景の緑はイスラーム教を意味する。デザインは独立運動を指導したムジブル=ラフマンが、日本の日の丸を手本としたと言っている。

民政と軍クーデタ

 アワミ連盟ムジブル=ラフマン政権はインドのネルー政権に倣い、ナショナリズム・社会主義・民主主義・政教分離主義を国家政策の四原則として掲げ、重要産業の国有化など社会主義政策を実行し、1972年には憲法を制定した。1973年の総選挙ではアワミ連盟は圧勝したが、経済成長は順調とは言えず、混乱がつづき、社会不安も増大した。ムジブル=ラフマンは強権的な政治で危機を乗り切ろうとしたが、1975年8月、軍がクーデタを決行、ムジブルは家族とともに殺害された(このとき海外留学中で殺害を免れたのが後に首相となる娘のシェイク=ハシナだった)。
 その後も軍内部の勢力争いからクーデタが続き、政権は安定しなかったが、1977年にジアウル=ラフマン陸軍参謀長が実権を掌握、大統領となり戒厳令をしいて軍政を開始、同時にアワミ連盟に対抗する自己の支持母体としてバングラデシュ民族主義党(BNP)を結成した。そのもとで社会主義的な憲法は廃棄され、イスラーム色が強まった。79年の総選挙ではバングラデシュ民族主義党が勝ち、戒厳令は解除されたが、1981年、ふたたびエルシャド陸軍参謀総長による軍事クーデタでジアウル=ラフマンも殺害された。
 軍事クーデタで実権を握ったエルシャドの軍政がつづいたが、次第にアワミ連合とパキスタン民族主義党に学生、知識人が加わって軍政反対の声が強まり、民主化運動が展開され90年末にエルシャドは退陣した。1991年2月の総選挙は、ムジブル=ラフマンの娘シェイク=ハシナの率いるアワミ連盟(AL)、ジアウル=ラフマン夫人のカレダ=ジアの率いるバングラデシュ民族主義党(BNP)の間で双方とも学生を動員した激しい選挙戦が展開され、カレダ=ジアのBNPの勝利となった。以後、BNPとALという二大政党が選挙ごとに政権を交代させていく。

ALとBNPの争い

 BNPカレダ=ジア政権は大統領制を廃止して議院内閣制を復活させ、民間主導の経済政策を進めて一応の安定をもたらしたが、ミャンマーからの難民の流入などの対応で議会無視の姿勢が問われることとなり、アワミ連盟との対立が激しくなった。1996年選挙ではアワミ連盟が勝利してハシナ政権が成立したが、両党はムジブル=ラフマン暗殺の事実調査やエルシャドのクーデタに対する責任問題をめぐって鋭く対立、2001年10月の総選挙では今度はBNPカレダ=ジアが勝って政権に復帰した。BNPとALの党派闘争はその後も続き、2008年総選挙では逆転してALが勝ち、シェイク=ハシナが首相に返り咲いた。

ハシナ長期政権の腐敗

 アワミ連盟のハシナ首相(正確にはシェイク=ハシナ=ワゼド)は1971年のバングラデシュ独立運動の指導者で初代首相のムジブル=ラフマンの娘。1975年の軍クーデタで父と家族が殺害されたとき、唯一ドイツに留学中であったため難を逃れた。帰国後も軍事政権に活動を制約されながらアワミ連盟を再建し、その指導者となった。2008年に政権に復帰したが、政権は長期政権化すると共に腐敗が横行、市民の反政府活動を厳しく取り締まり、反対党のBNP党首カレダ=ジアを逮捕するなど強権的となった。人口増加による経済の停滞と就職難、政権のインド寄りの姿勢に対するイスラーム強硬派の反発、ミャンマーとの間のロヒンギャ問題、などを抱え社会不安が広がった。
ロヒンギャ人問題 2015年、ロヒンギャ人問題が表面化した。ロヒンギャ人とは、ビルマ(ミャンマー)の南西海岸部に居住していたベンガル系のイスラーム教徒で、仏教徒の多いミャンマーでの迫害を避けて、同じムスリムであるバングラデシュに流入してきた。バングラデシュ政府は難民受けいれに難色を示し、行き場を失ったロヒンギャ人がマレーシアやインドネシアをめざしてベンガル湾に逃れようとして遭難するなど、国際問題化している。

NewS ハシナ政権の崩壊

 ハシナ政権は1971年の独立戦争で亡くなった兵士の家族を公務員試験で優遇する制度(三〇%の枠を与える)をとっていたが、それによって一般学生が不利になっている、という不満が強かった。2024年7月16日、公務員採用での優遇枠の廃止を要求するデモを行っていた学生が警察に射殺されたことで怒りが爆発、政権側は実力を行使してデモを弾圧、200人以上の死者が出た。8月4日、学生の抗議デモは再び警官隊と衝突、多数の死傷者が出て、抗議はハシナ首相退陣要求に変化し、5日には数十万の市民が暴徒化、首都ダッカでは警察署が焼かれ、首相公邸に乱入した。ハシナ首相は5日午後、親族と共に公邸を脱出、インドに向かった。軍の参謀総長はハシナの辞任を発表、暫定政権を発足させることを表明した。 → BBCニュース 2024年8月6日
 一時中断を除いて20年にのぼったハシナ政権が、民衆の蜂起であっけなく倒されたことに国民も世界も驚いた。過去の例であればバングラデシュの政変は軍が絡むことが多かったが、今回は軍は表に立たず、暫定政権の樹立を容認した。大統領が議会を解散し、暫定政戦を発足させ、国民的な人気の高い、経済学者でグラミン銀行の創設者、ノーベル平和賞受賞者ムハマド=ユヌスが最高顧問に就任した。ムハンマド=ユヌスは8月25日、国民に向かって演説し「行政や司法、選挙制度の改革を実行し、総選挙を経て、透明性の高い政治体制を導入する」と述べた。しかし、すでに多数派であるイスラーム教徒は、アワミ連盟前政権がインド寄りだったことに不満を強め、少数派のヒンドゥー教徒を襲撃するなどの動きが出ており、混乱もみられる。ユヌスはすでに84歳、暫定政権から新政権への移行は困難も予想される。<2024/9/30記>
ムハンマド=ユヌスとグラミン銀行 バングラデシュ暫定政権の最高顧問となったムハンマド=ユヌス Muhammad Yunus は、1940年にバンフラデシュ第二の都市チッタゴンに生まれ、チッガゴン大学卒業後渡米し、バンダービルト大学で経済学博士号を取得、中央テネシー州立大学で助教授となった。バングラデシュ独立後の1972年に帰国、政府委員、チッタゴン大学経済学部長などを務めた。1974年の大飢饉をきっかけに貧困者の救済活動を開始、そのなかで1983年に貧窮者への無利子融資を行うグラミン銀行を創設、自ら最高経営責任者として経営にあたりマイクロクレジット・プログラムを国内外で展開した。1996年にはアワミ連盟政権の閣僚も務めた。その後もさまざまな分野で貧困と闘って功績を挙げ、国際的にも評価が高まり、2006年にノーベル平和賞を受賞した。
 2011年、バングラデシュ中央銀行は、ユヌスが商業銀行総裁の60歳定年制に違反しているとしてグラミン銀行総裁の地位を解任、ユヌスは撤回を求めて提訴したが、最高裁で棄却され解任が決まった。これはユヌスがアワミ連盟とバングラデシュ民族主義党の二大政党に代わる新党「市民の力」を結成しようとしたことをハシナ政権が嫌ったため、といわれており、その後もユヌスに対する嫌がらせが続いた。2024年8月の抗議デモが起こった際には病気治療のためパリに滞在していたが、急遽帰国し、暫定政権最高顧問に就任し、政治の正常化と民主主義の再建にあたることになった。