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カシミール

インダス川上流の山岳地帯。広い意味のインドの一部であるが、古くからヒンドゥー教・イスラーム教、シク教などが入れ替わり、19世紀にはイギリスに支援された藩王国が成立した。第二次世界大戦後、インド・パキスタンが分離独立したとき、ヒンドゥー教徒・イスラーム教徒などが混在している地域であったため、帰属問題が生じ、現在も係争地域となっている。

 現在のパキスタン北部とインド北西部にまたがるカシミール(カシュミール)地方は、イギリス統治時代は藩王国とされ、国王はヒンドゥー教を奉じていたが住民は多数がイスラーム教徒であった。1947年、インド・パキスタンが、ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒が分離して独立した際、カシミール藩王はインド帰属としたが、住民のイスラーム教がそれに従わず紛争となった。インド・パキスタン双方が領有を主張し、同年のうちに早くも第1次カシミール戦争が起こった。その後も、1965年の第2次のインド=パキスタン戦争の原因となった。現在も両国の国境線は画定しておらず、対立が続いている。 → カシミール帰属問題

古代のカシミール

 カシミール地方はインド亜大陸の北西部、インダス川の最上流域にあたり、高峻なヒマラヤ山系の西端に深い谷が刻まれていて、すばらしい山岳景観を想像することが出来るが、現在は紛争地帯であるために自由な観光旅行は出来なくなっている。現代においてますます秘境的なイメージが強まっているが、自然環境が人間を寄せ付けないからなのではなく、国境紛争という人間の争いが人間の自由な往来を拒否している。
 しかし、歴史上のカシミールはけして秘境ではなく、狭隘ではあったが山道を通じて周辺の世界に通じていた。東はチベット、西はガンダーラアフガニスタン、北はカラコルム山脈を越えればパミールとタクラマカン砂漠、南はパンジャーブへとつながり、文化・経済の交流する地域であった。
 特に前3世紀半ばアショーカ王の時代に仏教が伝えられ、それ以後は仏教の一つの中心となり、クシャーナ朝カニシカ王の時代には第4回の仏典結集がこの地で行われ、ガンダーラ美術の影響を受けた仏像彫刻も盛んだった。この地方の中心都市スリナガルとは吉祥天の都という意味であり、また中国文献にも箇失蜜として出てくるという。唐の玄奘もこの地を訪れているが、その7世紀ごろにはヒンドゥー教が盛んになり始めていた。そして次第にヒンドゥー教が優勢となり、8世紀にはヒンドゥー教を奉じるカシミール王国が形成された。
 この地域が大きく変貌したのはムスリムの勢力が及んだ事による。11世紀初め、イスラーム教のガズナ朝がアフガニスタンから北インドを支配したことによってカシミールのイスラーム化も始まり、14世紀にはイスラームの支配下に入った。

ムガル帝国以後のカシミール

 ムガル帝国アクバル帝は1586年にカシミールを征服し、帝国の一州とした。ムガル帝国の皇帝は、カシミールを夏の避暑地にして離宮を置いた。しかし18世紀に入ると西側からアフガン人が侵攻してこの地を支配するようになり、さらに19世紀にはシク教がパンジャブ地方からこの地域まで勢力を伸ばしてシク王国の支配下に入ったが、インド植民地支配を進めたイギリスはこの地にも進出、1845年からのシク戦争でシク王国を倒した。第1次シク戦争での和平条約である1846年のラホール条約で、カシミール地方にはヒンドゥー教徒であるグラーブ=シングを藩主とするカシミール藩王国が成立した。藩王国は、独立政権とは言え、外交権・軍事権を奪われ、イギリス人駐在官を通じて間接統治が行われ、イギリス植民地支配を補完する役割に過ぎなかった。インド大反乱が起こったときもカシミール藩王国はイギリスに協力した。


カシミール帰属問題/カシミール紛争/カシミール戦争

1947年のインドとパキスタンの分離独立に際し、ヒンドゥー教徒の藩王がインド帰属を決定したことに住民の多数を占めるイスラーム教徒が反発して紛争が勃発。第2次紛争での軍事境界線が事実上の国境となっており、その後も国境紛争が続いていた。カシミールの内、インドが実効支配している地域は、47年以来、ジャンム=カシミール州として自治権が認められていたが、2019年8月、インド人民党モディ政権は自治権剥奪を決定、パキスタン側が反発し、対立の激化が危ぶまれている。

 カシミール藩王国の藩王はヒンドゥー教徒であったが、その住民の多く(70~80%)はイスラーム教(ムスリム)であった。インドの民族運動を主導したインド国民会議ガンディーは、宗教的寛容を説き、全インド一体としての独立を目指したが、ヒンドゥー教徒主体の運動に対するインドのイスラーム教徒の不満が高まり、イギリスが分離独立を工作したこともあって、第二次世界大戦後のインドの独立は分離独立という結果となった。そのため、インドとパキスタンの間でヒンドゥー教徒とイスラーム教徒がそれぞれの国に移住するという民族移動が一斉に展開され、その過程で衝突や家族離散などの悲劇が多発した。その中で、インドの宗教対立から戦争につながったのがカシミール問題であった。

第1次カシミール戦争

 1947年、ヒンドゥー教徒はインド、イスラーム教徒はパキスタンとして分離独立となったが、両教徒は棲み分けしていたのではなく、同一村落で共同生活していた人たちも多かったので、それぞれの居住区に分かれて移動しなければならないという大きな悲劇が生じた。さらにカシミールは、藩王はヒンドゥー教徒だったのでインド帰属を決定すると、人口の4分の3にのぼるイスラーム教徒は、移動を拒否し、そのままパキスタン帰属を求めたので衝突が開始された。独立したばかりのインド・パキスタン両軍も軍隊を派遣し、その年1947年10月から第一次カシミール戦争が勃発した。戦争は発足直後の国際連合が調停に乗りだし、1949年1月に休戦が成立した。国連決議はカシミールの住民投票によって帰属を決定するとしていたが、インドはそれを受けいれず、カシミール帰属問題は棚上げされたまま、両国の軍事占領地域の実効支配の境界が事実上の国境となった。 → インド=パキスタン戦争

中印国境紛争

 インドのネルー首相はそのころ、非同盟主義を掲げて冷戦中の米ソ二大国を牽制する第三世界のリーダーとして積極的な外交を展開していた。1954年には中国の周恩来との間で平和五原則で合意し、紛争の平和的解決への期待が高まった。
 しかし、ネルー指導のインドにとって、もう一つの国境問題として中印国境紛争が持ち上がった。それは1959年のチベット反乱から、チベット問題が深刻化した1960年代に、中国がインドのチベット支援を警戒する中で持ち上がったもので、東部のマクマホンラインと、西部のカシミールのアクサンティ地方までをインド領とすることに異議を申し立てたことから表面化した。中国・インド両国は1962年 に戦争状態に入ったが、インドはヒマラヤ山地での厳冬期での戦いに敗れ、ネルー政権は窮地に陥った。パキスタンは好機と捉えて中国を支援、パキスタン=中国の国境問題を解決し経済協力関係を結ぶと、追いこまれたネルーは、非同盟主義を放棄し、アメリカに支援を要請せざるを得なくなった。

第2次カシミール戦争

 インドが実効支配しているジャンム=カシミールの完全統合を宣言したことに対して、反発したパキスタンが1965年に攻勢を仕掛けて第2次カシミール戦争となった。中国がインドに対してパキスタン側で参戦する最後通牒を出すなど、全面対決の危機となったが、国連の場での米ソの働きかけによって停戦となった。アメリカは当時、ベトナム戦争の本格化に備えており、インド・パキスタン関係のこれ以上の悪化を望まなかったため、調停を働きかけたとされている。この停戦によって両国の実効支配している範囲が固定され、停戦ラインが事実上の国境となった。

第3次カシミール戦争

 インドとパキスタン両国は1971年に東パキスタンの分離独立問題から、第3次インド=パキスタン戦争を起こしている。この戦争で東パキスタンにいたパキスタン軍はインド軍の攻撃によって無条件降伏し、東パキスタンがバングラデシュとして独立することを承認した。この実質的敗北はパキスタンの軍政批判を強め、75年にはパキスタン人民党のズルフィカール=ブットーが大統領となって文政に移管した。1972年、インドとパキスタンの首脳はシムラ協定を締結、71年12月の停戦ラインを実効支配の境界とすることで合意した。しかし、それぞれの主張する国境内の主権を放棄することには至らず、カシミール帰属問題は本質的には未解決のまま現在まで続いている。

現在のカシミール問題

グーグルでみるカシミール地方の現状(第3次インド=パキスタン戦争後の実効支配と停戦ライン)
カシミール帰属問題

『世界各国史 南インド』山川出版 p.472を参考に、Gougle Map 上にインド、パキスタン、中国の主張する国境と、停戦ラインを色分けして示した。ただし概略を示すもので細部は正確ではない。パキスタンと中国の間では国境協定が成立しており、紛争状態ではない。


両国の核実験  停戦が成立したものの、宗教感情の対立もあって両国関係はさらに悪化を続け、1974年にはインドが核実験を行い、さらに1998年にはインドの再実験とパキスタンの核実験が相次いで実行され、あくまで自衛のためと称しつつ、核武装による潜在的対立が続いている。その最大の争点が、カシミール帰属問題であり、インド・パキスタン・中国がそれぞれ領土を主張し、複雑に交錯しあっている(上図参照)。
ジャンム=カシミール州の反インド暴動  現在インドのジャンム(ジャム)=カシミール州は、ヒンドゥー教徒が多数を占めるインドで、唯一のイスラーム教が多数を占める州である。この地は第2次カシミール紛争の際にインドが実効支配したもので、ジャンム=カシミール州として統治しているが、実態は多くの軍隊と治安部隊が「占領軍」として駐留し、イスラーム教徒住民の人権を侵害することが頻発し、しばしば衝突が繰り返されている。2016年7~8月にも治安部隊と反インドデモ隊が衝突し、40日間で64名が死亡するという事態となっている。事態を深刻にしているのは、現在のインドの中央政府を握っているインド人民党(BJP)が、同州に特別な地位を与えている憲法条項を廃止し、完全併合を掲げていることである。政府はヒンドゥー教徒の居住区建設を進めており、同時にBJPの支持母体であるヒンドゥー至上主義団体である民族奉仕団(RSS)はイスラーム教徒に対する暴力とヘイトキャンペーンを続けている。中央政府はイスラーム教徒の背後にはパキスタンからの越境テロリストが煽動していると非難しており、事態の解決への見通しは立っていないようだ。

NewS インド、カシミールの自治権剥奪

 2019年8月5日、インドのモディ首相は、ジャム(ジャンム)=カシミール州に70年前から認めていた自治権を剥奪することを明らかにした。ヒンドゥー教徒が8割を超えるインドで、ジャム=カシミール州だけは人口の大半がイスラーム教徒であるため、インド憲法によって一定の自治が認められ、外交・防衛・財政・通信を除く分野では州が独自の政治を行っていた。今回の措置はこの規定を改正する大統領令をまず発表し、その上で憲法改正のための法案や決議案を議会に諮って可決される見通しで、改定されれば同州はインド中央政府の直轄統治とされることとなる。
 インド人民党は「ヒンドゥー至上主義」をかかげ、この春の総選挙でもカシミールの自治を剥奪することを公約に掲げ、その結果として勝利したことから、モディ首相は「公約」を実行するにすぎない、と述べている。また、インド国民の統合を阻むカシミールの自治権を剥奪するのは国民の悲願である、とまでいって正当化している。さらにカシミールがイスラーム過激派や分離主義者のテロの温床になっているとして、テロ根絶のため、という理由もあげている。しかし、カシミールのイスラーム教徒はモディ首相・インド人民党の狙いはインド政府の直轄州とすることによってヒンドゥー教徒がカシミールで土地を取得しやすくし、入植を増やすことにあるとして警戒している。
 このインドの措置に対してパキスタンは強く反発、カーン首相はただちに声明を発表して、インドの動きに対しあらゆる対抗措置をとる、と牽制している。しかし、州都スリナガルなどではインドの措置に反発する元州首相など有力政治家の拘束が始まっており、現地情報では軍と警察が町を制圧し、市民生活も自由を奪われているという。それに対してパキスタン側のカシミールでは抗議活動が広がり、パキスタン軍も軍事境界線に部隊を結集させている。
 パキスタンは国連でインドの措置を強く非難し、中東の友好国などに支援を要請しているが、インド政府は国際社会の批判は内政干渉であるとして一切受け付けないと表明している。最も憂慮されるのは、核保有国である両国が、核兵器の使用に踏み切るのではないか、ということであるが、両国の防衛担当者も部分的な核兵器の使用の可能性を否定していないので、国際社会も警戒を強めている。 <『朝日新聞』2019/8/7朝刊 同8/9朝刊、その他TV報道などを総合>(2019/8/19記)
 インドは続いて同年10月、ジャンム=カシミール州を連邦直轄地に編入した。その際、隣接する中国実効支配地域アクサイチン地区をインド領とする地図を作成発表したことに対して中国が反発し、2020年6月15日、中国軍が実効支配線を越えてラダック地方のガルワン渓谷に侵入し、印中両軍が衝突した。インドと中国の関係は悪化したが、両者の経済的結びつきが強くなっていることから、全面的な戦争には至らず、双方がにらみ合う事態が続いている。 → 中印国境紛争
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