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バビロン捕囚

前586年、ユダ王国が新バビロニアに征服され、ユダヤ人がバビロンに連行され、捕囚となった。前538年にアケメネス朝キュロス2世によって解放された。

 「バビロン捕囚」の出来事は英語で、the Exile という。そう、エグザイルである。あの人気グループが EXILE と名乗った理由については、彼らのオフィシャルサイトを見ても説明はないが、グループを作った当初は売れずに苦労したらしい。その苦難の時期を「捕囚」にたとえたのかも知れない。長い下積みを経てようやく認められてブレイク、今や天皇即位20周年奉祝曲を晴れがましく歌い踊るという彼らの軌跡と、何となく神がかった(現代風におどろおどろしい)スタイルが、バビロンに囚われの身となって苦労の末、解放されてイェルサレムに戻りヤハウェ神殿を建てたというユダヤ人と重なり合う気がする。冗談はさておき、世界史学習上での「バビロン捕囚」はどう理解したらよいだろうか。
 「バビロン捕囚」または「バビロニア捕囚」(念のため、「補習」ではないので気をつけよう)とは、紀元前586年、ユダ王国の首都イェルサレム新バビロニア王国ネブカドネザル王によって征服され、住民のヘブライ人は、囚われの身となってバビロンに連行され、およそ50年の捕囚生活の後、新バビロニアがアケメネス朝ペルシア帝国キュロス2世によって滅ぼされた前538年に解放されてパレスティナの地に戻ることが許された、という説明でどの教科書にも記載されている。またその歴史的意義としては、この民族的苦難を契機としてユダヤ人としての民族意識を高め、ユダヤ教という民族宗教の体系をつくりあげたことと、その後のユダヤ人の国家喪失、いわゆる「離散」(ディアスポラ)の始まりであったことが取り上げられている。この「捕囚」の記憶は旧約聖書をつうじての地のキリスト教世界にも継承され、中世ヨーロッパで1309年に始まる教皇庁の分裂を「教皇のバビロン捕囚」(またはたんに「バビロン捕囚」)と言われているところに、この出来事が重要視されていたことが現れている。
 ところで、「捕囚」の実態はどのようなものだったのだろうか。まず注意しなければならないのは、そのことを伝える史料はほぼ『旧約聖書』しかないということである。聖書以外に、当時のバビロニアやペルシアの文字史料でこの事実を伝えているものはほとんど存在していない。聖書というユダヤ人自身の伝承が唯一の史料であり、客観的な記録や史料は残されておらず、ということはどの教科書も、旧約聖書の伝承を鵜呑みにして記述しているのだ。気をつけなければならないのは、この「ユダヤ民族」の民族的苦難が、そのまま現代のイスラエル国家の建設の正当性へと結びつけられることである。「バビロン捕囚」の時代のユダヤ人と、現代のユダヤ人とは、全く違った民族であるというのが正しい理解であるので、その点も注意を要する。
 そこで、歴史的事実としてどのようなことがあったのか、古典的な名著とされるジーグフリード『ユダヤの民と宗教』(岩波新書 1959)、シーセル=ロス『ユダヤ人の歴史』(みすず書房 1961)を手掛かりに、『旧約聖書』を史料として批判的に利用している山我哲雄『聖書時代史 旧約編』(岩波現代新書 2003)、近刊の高橋正男『物語イスラエルの歴史』(中公新書 2008)などを参考にして、高校の学習で必要な程度の「バビロン捕囚」の歴史を再構成してみよう。

ユダ王国のアッシリアに対する抵抗

 前722年、イスラエル王国がアッシリアに滅ぼされた後、ヘブライ人の国家はイェルサレムを都としたユダ王国のみとなった。アッシリアはユダ王国も征服しようとイェルサレムに総攻撃をかけたが、ユダ王国の王ヒゼキヤはイェルサレムの城壁を増築し、水路を造って飲用水を確保するなど守りを固めてて抵抗したが、結局はその軍門に下り、アッシリアに貢納する属国として細々と独立を維持することとなった。(ただしこの時はイェルサレムは破壊されなかった。この経緯は旧約聖書の記述がアッシリア側の碑文と一致しているので知ることができる。)

Episode ヒゼキヤのトンネル

 ユダ王国の王ヒゼキヤは「アッシリア軍による長期間のイェルサレム包囲に備えて、イェルサレムの城壁を固め、食料を蓄え、水源確保のため、ギホンの泉とシロアハの池との間に地下トンネルを開鑿して、生活用水を城内まで導き入れることに力を注いだ(前705~701年)。・・・トンネル掘鑿はアッシリア軍に対するセビキヤのもっとも注目に値する防御策だった。これによって町を包囲された場合でも十分な生活用水を供給できたのである。」このトンネルは全長530mに及び、現在もイェルサレムに残っている。<高橋正男『物語イスラエルの歴史』中公新書 2008 p.114による>

アッシリアの滅亡の情勢

 前609年にメソポタミアとエジプトを統一支配していたアッシリアが最終的に滅亡すると、オリエント世界は、新バビロニアのネブカドネザル(ネブカドネツァル)王とエジプト(第26王朝)のネコ王がその覇権をめぐって激しく対立することとなった。その中間にあるパレスチナのユダ王国は両国の間で揺れ動き、最終的な選択が迫られたが、その判断はエジプト側に付くというものだった。それに対して新バビロニアのネブカドネザル王はたびたびユダ王国に圧力を加え、自陣営に引き寄せようとした。また、ユダ王国の王は両国の優劣を図りながら王権の維持を図り、貢納や軍事の負担は民衆を圧迫した。前601年頃、新バビロニアのネブカドネザル軍がエジプト侵入を試み、エジプト王ネコに撃退されたのを見たユダ王国の王ヨヤキムは、新バビロニアに叛旗をひるがえして貢納を停止した。態勢を整え直したネブカドネザルがパレスチナに迫ると、ユダ王国の王ヨヤキムは国内の親バビロン派に暗殺されたらしい。

第1回バビロン捕囚

 前598年とされる。旧約聖書が伝えるその時の有様は次の通りである。
(引用)「・・・バビロンの王ネブカドネザルもまた町(イェルサレム)に攻めてきた。ユダの王エホヤキン(このとき18歳)はその母、その家来、そのつかさたち、および侍従たちと共に出て、バビロンの王に降服したので、バビロンの王は彼を捕虜とした。これはネブカドネザル王の治世の第8年であった。彼はまた主の宮のもろもろの宝物および王の家の宝物をことごとく持ち出し、イスラエルの王ソロモンが造って主の神殿に置いたもろもろの金の器を切りこわした。主が言われたとおりである。彼はまたエルサレムのすべての市民、おおびすべてのつかさとすべての勇士、さらにすべての木工と鍛冶一万人を捕らえて行った。残ったものは国の民の貧しい者のみであった。・・・」<日本聖書協会『聖書』1955年改訳旧約聖書・列王紀下第24章 p.560>
この時バビロンに送られた総数はエレミヤ書では3023人とされているが、これは家長だけを指し、実際に家族を含めればその数倍になるだろう。この時はネブカドネザルは神殿は破壊せず、また属州とすることもなく、属国としてエジプトとの緩衝地帯としようとしたらしい。<山我哲雄『聖書時代史 旧約編』2003 p.166-167>

第2回バビロン捕囚

 エホヤキン(ヨヤキン)がバビロンに連行された後、バビロンの王によってその叔父が王位に付けられてゼデキヤとなった。しかしこの王も列王紀では前の王たちと同じく「主の目の前で悪を行った。エルサレムとユダにこのような事の起こったのは主の怒りによるもで、主はついに彼らをみ前から払いすてられた。」と言っている。そのビデキヤがバビロンの王にそむいたので、前586年に第2回バビロン捕囚が起こった。同じく列王紀の記事を引用しよう。
(ネブカドネザルはエルサレムの周囲にとりでを築いて攻めた)(以下引用)「・・・こうして町は囲まれて、ゼデキヤ王の第11年にまで及んだが、その4月9日になって、町のうちにききんが激しくなり、その地の民に食物がなくなった。・・・(王は夜のうちに逃げ出して落ち延びたが途中捕らえられた。バビロンの王は)彼の罪を定め、ゼデキヤの子たちをゼデキヤの目の前で殺し、ゼデキヤの目をえぐり、足かせをかけてバビロンへ連れていった。バビロンの王ネブカドネザルの第19年(前586)の5月7日に、バビロンの王の臣、侍衛の長ネブザラダンがエルサレムにきて、王の宮と王の家とエルサレムのすべての家を焼いた。また侍衛の長と共にいたカルデヤびとのすべての軍勢はエルサレムの周囲の城壁を破壊した。そして侍衛の長ネブザラダンは、町に残された民およびバビロン王に降服した者と残りの群衆を捕らえ移した。ただし侍衛の長はその地の貧しい者を残して、ぶどうを作る者とし、農夫とした。」<日本聖書協会『聖書』1955年改訳旧約聖書・列王紀下第25章 p.560-561>
 これが第2回バビロン捕囚で、一般にこの時のことを「バビロン捕囚」と言っている。この時イェルサレムから連れ去られたのはエレミヤ書に依れば832名とされているが、これも家長だけの数字であろう。この時はイェルサレムは徹底的に破壊され、神の加護の象徴であった神殿にも火がかけられ、ユダ王国は滅亡した。
(引用)「バビロニア軍は、今回はエルサレムを徹底的に破壊し、エルサレムへの神の加護の象徴であった神殿にも火を放った。こうして栄華を謳われた「神の都」は廃墟と化し、単独王朝としてはオリエント世界に他にほとんど類を見ない5百年近い万世一系の支配を誇ったダビデ王朝は遂に断絶した。」<山我『同上』 p.169-170>

バビロン捕囚後のパレスチナ

 ネブカドネザルはユダの地を属州とし、総督をおいて支配したが、潜伏した反バビロニアの人々の抵抗が続いた。総督暗殺事件が起こると報復を恐れた反バビロニア派の多くはエジプトに亡命した。なお、エレミヤ書に依れば、前582年に第3回のバビロン捕囚が行われ、745人が連行されたと言うが、詳細は分からない。イスラエル王国を滅ぼしたアッシリアは、人々を強制的に分散させ、イスラエルの地には他から入植者を移住させたが、ユダ王国を滅ぼした新バビロニアは、集団としてまとまってバビロンに連行し、またその跡地には他から入植させなかった。そのため、解放された人々が戻ったときには比較的民族賭してのまとまりを維持することができた。しかし、かつてのイスラエル12部族の内、バビロン捕囚後も存続できたのはほとんどがユダ王国の中心部族だったユダ部族だった。そのため、バビロン捕囚後は「ユダの民」つまり「ユダヤ人」といわれるようになる。<山我『同上』 p.170-172>

旧約聖書の中の捕囚

(引用)「捕囚時代に人々がバビロンや本土でどのような生活をしていたのかを直接叙述した文書はない。それゆえこの時代の状況については、預言者や詩編中の付属的な言及から推測するしかない。」<山我『同上』 p.172>

参考 旧約聖書詩編より

 それでは『旧約聖書』を見てみよう。代表的な一節として「詩編137編」から引用。
(引用)われらはバビロンの川のほとりにすわり、シオンを思い出して涙を流した。
われらはその中のやなぎにわれらの琴をかけた。
われらをとりこにした者が、われらに歌を求めたからである。
われらを苦しめる者が楽しみにしようと、「われらにシオンの歌を一つうたえ」と言った。
われらは外国にあって、どうして主の歌をうたえようか。
エルサレムよ、もしわたしがあなたを忘れるならば、わが右の手を衰えさせてください。
もしわたしがあなたを思い出さないならば、もしわたしがエルサレムをわが最高の喜びとしないならば、わが舌をあごにつかせてください。
主よ、エドムの人々がエルサレムの日に、「これを破壊せよ、これを破壊せよ、その基まで破壊せよ」と言ったことを覚えてください。
破壊者であるバビロンの娘よ、あなたがわれらにしたことを、あなたに仕返しする人はさいわいである。
あなたのみどりごを取って岩に投げうつ者はさいわいである。<日本聖書協会『聖書』1955年改訳旧約聖書 詩編第137編 p.870>

バビロン捕囚の実態

 聖書から知られる範囲ではそれは「捕囚」や「拉致」というイメージではなく、「移住」かせいぜい「亡命」というのがあたっている。Exile も直訳すれば「亡命」である。「捕らえられて囚人とされた」イメージは払拭した方が良さそうだ。
(引用)「通常用いられている“捕囚”という言葉は、誤解を生じやすい。バビロンでのユダヤ人たちは、決して拘禁されていたわけでも、(出エジプト時代のイスラエル人のように)奴隷として虐待されていたわけでもないからである。本来の意味で“捕囚”されたのは、前597年(第1回捕囚)に連行されたユダ王国の王ヤヨキン(およびおそらくは彼にごく近い少数の人々)だけであった。・・・一般のユダヤ人たちはニップル付近のケバル川のほとりのテルアビブやその他の土地に自分たちの集落を設け、もちろんバビロニア人の監視のもとではあろうが、長老たちを中心にある程度自治的な生活を営むことができたらしい。・・・捕囚民は、ある程度の移動や職業選択の自由も与えられていたらしい。後にはユダヤ人の中から、商業に従事し豊かな富を蓄える者も出てきた。・・・バビロン「捕囚」がけして過酷なものでなかったことは、ペルシアによる解放後もかなりの数のユダヤ人が自発的にバビロンに留まったことにも示されている。」<山我『同上』 p.176-177>

バビロン捕囚の意義

 ユダヤ教の成立 ユダヤ人にとって捕囚そのものは苛酷な苦難ではなかったが、神の保護のもとにあったはずの祖国が消滅し、神殿は破壊されてしまったことは、ヤハウェ神への信仰をゆるがす大きな危機であった。それはヤハウェ神への疑義と異教への誘惑が強まるという形で高まった。しかしユダヤ人は捕囚生活の中で、強い望郷の念とともに新たな信仰形態を育んでいった。バビロン捕囚時代に生まれた、かつての神殿儀礼を中心とした信仰の形態に代わる新たな信仰形態は次のようなものである。
・長老や知識人を中心とした集会で律法(トーラー)の言葉を学び、祈り、礼拝するようになった。これが後のシナゴーグの原型となった。
・異教徒からユダヤ人を区別する生活習慣-安息日、割礼、種々のの食物規制-が定着した。
ここで生まれたユダヤ人の信仰上の生活習慣は、彼らが世界中に離散(ディアスポラ)した後も、二千年以上に渡って彼らのアイデンティティとして保持されるのである。そこで宗教史では捕囚以前を「古代イスラエル宗教」または「ヤハウェ宗教」といい、捕囚以降の律法を中心とした宗教を「ユダヤ教」と言って区別している。<山我『同上』p.176-181>

バビロン捕囚からの解放

 アケメネス朝ペルシアキュロス2世は前539年にバビロンを征服し、翌前538年に勅令を発布し、ユダヤ人のイェルサレムへの帰還と神殿の再建を許可し、さらに戦利品としてバビロンに没収されていた神殿の器物を返還し、神殿再建のための財政援助を約束した。こうして約50年に近い捕囚の生活を終わり、帰還民が続々と出発し、イェルサレムを目指した。この時帰還した人数については旧約聖書エズラ記に詳しく載せられているが、それらは一度に帰郷したのではなく、長い時間をかけて戻ったものであろう。なお、ユダヤ人が戻ったパレスチナの地はペルシア帝国の州(サトラップ)とされ(異説あり)、ユダヤ人のゼルバベル(ダヴィデ家の血統であったらしい)が総督に任命され、一定の自治が行われた。ペルシア帝国は宗教的な寛容政策をとり、ユダヤ教などの民族宗教はそのまま信仰を認められた。

離散ユダヤ人の指針

 「バビロン捕囚」は、ユダヤ人の中には帰郷せずにバビロン周辺に残ったものも少なくなかったらしい。その意味ではバビロン捕囚は、ユダヤ人の離散(ディアスポラ)のはじまりであったと見ることも出来る。世界各地に離散したユダヤ人にとって、「バビロン捕囚」となったユダヤ人に預言者エレミアが贈った書簡が、生き方の指針となった。
(引用)「かれらは捕囚の地に安住し、あたらしい家庭をつくり、正常な生活を営み、あたらしい国のよき市民となり、バビロンの平和を祈ること、かれらがヤーヴェの信仰に忠実であるかぎり、ヤーヴェはかならず最後にはかれらに報い給うべし、と。現在に至るまで世界各地に居住する大部分のユダヤ人が、守り実行している生活態度は、エレミヤの忠告にしたがった捕囚ユダヤ人にはじまるものと言ってよいだろう。捕囚中のユダヤ人は、儀礼的な神殿礼拝に代わる簡素なシナゴグという会堂礼拝を案出した。」<中央公論社刊旧版『世界の歴史』1 1960 p.445 中原与茂九郎執筆>

預言者エレミヤ

 エレミヤは、新バビロニアとエジプトにはさまれたユダの民が優柔不断な王の下に戦争の不安と苦しみに悩むという国家の危機の中でイェルサレム神殿への呪術的信仰が広まることに対し、ヤハウェの契約と立法に従うしか祖国の救いはないとし、神殿と祖国の壊滅を預言した。「バビロン捕囚」を神の審判と考えたエレミヤは、新バビロニアへの空しい反抗をやめるように主張した。敗戦の後、新バビロニアの総督ゲダリアのもとで祖国の再建をもくろんだが、ゲダリア暗殺後、新バビロニアの報復を恐れた民衆によってエジプトに連行され、そこで死んだ。<ジーグフリード『ユダヤの民と宗教』岩波新書 p.65 訳者鈴木一郎の訳注>

参考

 ヨーロッパのユダヤ人問題を「われわれの問題」としてその解明に取り組んだアンドレ=ジーグフリードは『ユダヤの民と宗教』の中で次のように述べている。
(引用)「バビロン捕囚は、他に何回もあったユダヤ人の離散(ディアスポラ)の一例でしかない。征服者はわずかな者だけを比較的裕福で信頼するに足る“占領軍への協力者(collaborateurs)”とともにエルサレムに残したが、エジプト、アルメニア、コーカサスには、その後帰国を断念したユダヤ人たちのグループが離散していたのである。メソポタミアでは事情が違っていて、ユーフラテス川の中流に、ユダヤ人の部落ができあがり、彼らはもちろん捕囚の身ではあったが、虐待はされていなかった。これらのユダヤ人部落は、その後もきわだった活動をつづけ、しばらくすると相当の繁栄ぶりをみせている。エステル記はユダヤ人の心理をよく示しているが、それによればこの捕囚であるユダヤ人たちが逆に人を苦しめることとなった気配がある。要するにこうした変化にもかかわらず、いと高き使命を負う選民であるという意識は、捕囚の中にあっても強められ、イスラエル民族はその存在をまっとうしてゆくのである。」<ジーグフリード『ユダヤの民と宗教』1959 岩波新書 p.71 鈴木一郎訳>
この“占領軍への協力者”というカッコ付きの表現は、第2次世界大戦中のフランス人の中のドイツ占領軍への協力者のことを念頭においているというのが訳者鈴木氏の指摘である。(同書p.93)
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ノートの参照
1章1節 オ.東地中海世界
書籍案内
『ユダヤの民と宗教―イスラエルの道』 (岩波新書)
『ユダヤ人の歴史』 シーセル・ロス(みすず書房)

山我哲雄
『聖書時代史 旧約編』
2003 岩波現代文庫

高橋正男
『物語イスラエルの歴史』
2008 中公新書