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ユダ王国

前922年ごろ、ヘブライ王国が分裂した後の南部の王国。都はイェルサレム。前586年に新バビロニアに滅ぼされた。

 前922年ごろにユダヤ人の国家、ヘブライ王国の北部がイスラエル王国として分離独立した後の、パレスチナ南部をユダ王国という。ダヴィデ王、ソロモン王のユダ一族の後継者が王位を継承したのでユダ王国と言われる。都はイェルサレムを継承した。

ユダ王国のその後

 北のイスラエル王国の王権は不安定であったが、ユダ王国ではダヴィデの子孫がほぼ王位を継承し、イェルサレムのヤハウェ神殿の祭司の権威を背景にした王政は比較的安定し、イスラエル王国とも抗争と同盟関係を繰り返しながら存続した。
 メソポタミア北部に起こったアッシリアが次第に有力となり、サルゴン2世は、前722年イスラエル王国の都サマリアを征服して滅ぼした。その圧力がユダ王国にも及び、ユダ王国はアッシリアへの朝貢を強いられ事実上はその属国となったが、独立は維持した。ユダ王国が弱小王国ながら独立を維持できたのは、北のアッシリア帝国と南のエジプトの間にあって緩衝国となったからであった。
 前7世紀にはいると、アッシリアはユダ王国を通って軍隊を動かしてエジプトに侵入するようになり、前663年に、アッシュール=バニパル王がエジプトを征服したオリエント世界を統一しアッシリア帝国となった。ユダ王国のアッシリアへの政治的従属は強まり、実質的に独立が損なわれた時期もあったが、アッシリア帝国の隆盛が長続きせず、メディア人の反乱などが始まったため、急速に衰え、前612年に首都ニネヴェが陥落して滅亡、ユダ王国の独立も回復された。
 しかしアッシリア帝国が滅亡して動乱の時代にはいるとユダ王国にも危機が訪れた。一時はエジプトが進出し、ネコ王がユダ王国を支配したが、まもなく北方から新バビロニアが進出して、ユダ王国も脅かされるようになった。

バビロン捕囚

 ユダ王国はエジプトの支援を期待して反乱を起こすが、それに対して新バビロニアのネブカドネザル王は前598~597年に遠征軍を派遣して反乱を鎮圧、イェルサレムを占領した。このとき、第一回のバビロン捕囚が行われた。前587年、ユダ王国は再び反乱し、ネブカドネザル王は再び遠征軍を派遣、前586年、今度はイェルサレム神殿を徹底的に破壊し、ユダ王国は事実上滅亡した。これによって多数のヘブライ人がバビロンに連行され、第2回のバビロン捕囚が行われたが、一般に「バビロン捕囚」というのはこの時のことをいう。ユダヤ人は、バビロンで捕囚としての生活を送る間に、民族信仰である唯一神ヤハウェに対する信仰を捨てることはなく、民族的苦境の中でさらに信仰を強めていった。
 バビロン捕囚によってユダ王国は実質的に滅亡し、パレスチナの地は新バビロニアの属州となった。ヘブライ王国から数えれば5百年に近い歴史(ほぼダヴィデ家の家系で継承された)はオリエントで希有なことである。

その後のユダヤ人国家

 バビロン捕囚が行われたことによってユダヤ人の国家が完全に抹殺されたわけではなかった。ネブカドネザルはイェルサレムの北方に政府を移し、ユダ王国の王の血筋を引く貴族のゲダリアを総督として治めさせた。しかし旧王家の一人が不平をもって総督を殺害するという混乱が続き、その不平分子も新バビロニアの糾明を恐れてエジプトに亡命、ユダ王国の地は廃墟となって放置された。<セーシル=ロス『ユダヤ人の歴史』1961 みすず書房 p.31-37>

捕囚からの帰還

 しかしユダヤ人たちは、前538年にペルシア帝国のキュロス2世が新バビロニアを亡ぼした際に解放され、ユダ王国の故地、イェルサレムに帰還し、ヤハウェ神殿の再建が認められた。ペルシア帝国の宗教寛容策によって、彼らはユダヤ教を守るという形でユダヤ国家を維持することができた。また、捕囚からの帰還後、ユダヤ人は一神教としてのユダヤ教を確固たるものとし、信仰と律法(トーラー)を厳格に守るというその特色を強めていった。
ハスモン朝 その後、ペルシア帝国がアレクサンドロス大王に亡ぼされると、パレスチナの地はセレウコス朝シリアの支配を受けることとなった。前166年にはハスモン家のユダス=マカバイオス(マカベウス)が指導してセレウコス朝からの独立を求めるマカベア戦争が起き、ユダ王国のハスモン朝(ハスモン王国とも言う)として自立する。
ヘロデ朝からローマ属州へ  次ぎにローマの介入を受けるようになり、ローマの支援でヘロデ朝(ヘロデ王国とも言う)を経た後、6年にパレスチナがローマの属州となった。これによってユダヤ国家の独立は完全に消滅し、祖国を失ったユダヤ人は離散(ディアスポラ)という苦難へと向かうことになる。
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書籍案内

シ-セル=ロス
長谷川眞・安積鋭二訳
『ユダヤ人の歴史』
1961 みすず書房