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トロイア戦争

古代ギリシアでミケーネ、スパルタらとトロイアの戦い。ホメロスの『イリアス』によって伝えられ、「トロヤの木馬」など物語的であるが、19世紀末のシュリーマンのトロイア遺跡発掘から歴史的事実とされるようになった。

 ホメロスの叙事詩『イリアス』に物語られるギリシアの王国連合とトロイア王国(トロヤ)の間での10年にわたる戦争。
 トロイアの王子パリスがスパルタ王の妃でギリシア一の美女と言われたヘレネを誘拐し、トロイアに連れて行ってしまったことから、ミケーネ王のアガメムノンを指揮者として、勇猛無比なアキレウス、知略に長けたオデュッセウス、助言者ネストルなどギリシアの英雄たちがトロヤを攻撃することとなった。ギリシア軍は10年にわたってトロイアを包囲しが、トロイア側も王子ヘクトルなどの名将の下でよく戦った。ギリシア軍は勇士を忍ばせた巨大な木馬をつくり、和平の贈りものと偽って城門を開けさせ、躍り出た勇士がトロイアの王宮を焼き討ちにしてヘレネを助け出したという(「トロヤの木馬」)。なお、この話は、トロイアが落城したとき、ただひとり脱出したアエネアスが地中海各地を彷徨した後、イタリアのローマに至りその子孫のロムルスがローマを建国するというローマ建国神話(ウェルギリウスの『アエネイス』)につながっている。 → ギリシア人

Episode トロイア戦争のはいつごろのことか?

 この物語は単なる神話ではなく、ミケーネ王がトロイアを征服した事実を反映していると考えられる。トロイアの存在を明らかにしたのは少年時代の夢を実現させたシュリーマントロイア遺跡の発掘であった。しかし、このトロイア戦争となるとその時期をめぐって歴史家の意見が分かれている。一般にミケーネ文明時代の前13世紀のこととされているが、この時期は考古学上は青銅器時代だ。ところが物語では農民は鉄器を使っている。このことからイギリスの社会史学者フィンレーは1963年にトロイア戦争の史実を否定し、それは前10~9世紀の鉄器社会に移行する時期の現実を反映させたものだ、と主張した。ところが現在ではやはり前13世紀のミケーネ時代のことだというのが有力になっている。それは、同時代のヒッタイト帝国のボアズキョイ遺跡から出土した文書にアカイア人(ミケーネを建国した)やトロイアの別名イリオス、パリスの別名アレクサンドロスなどの名前が出てきたからである。ヒッタイトと接触していたのであれば、トロイアやミケーネも鉄器を使用していてもよさそうだが、いまのところはっきりしていない。もっともトロイア戦争を扱った映画では、平気で鉄の剣が使われているが・・・。<村川堅太郎他『ギリシア・ローマの盛衰』1993 講談社学術文庫 p.48-50 などによる>

参考 フィンリーのトロヤ戦争否定説

(引用)シュリーマンの業績は画期的であった。それにもかかわらず、さまざまな主張は主張としてシュリーマンとその後継者たちが発見したものの中には、トロイア第七層aの破壊とミュケナイ時代のギリシアを、あるいはどこか他の方面からの侵入を結びつけるのは何ひとつ、一片のかけらもない。というのが論争の余地のない事実なのである。それに、ギリシアや小アジアの考古学的発掘や線文字B文書から知られていることにも、ギリシアからトロイアへ大規模な船団が大挙して押し寄せたというホメロスの物語に符合するものは何もない。また、そんな遠征の適当な動機も思い浮かべることができない。トロイア第七層aも蓋を開けてみれば、財宝もなく、聳え立つ大建築物もなく、どうにか宮殿を思わせるものすらない、みすぼらしく貧しい小さな町であったことが判明した。トロイアは、いや「トロイア戦争」なるものすら、ヒッタイト語やその他の言語による同時代のどんな記録にも言及されていない。それにこの物語には他にも、ことに年代の点で、いろいろと考古学上の困難な問題がつきまとっているのである。<フィンリー/下田立行訳『オデュッセウスの世界』1994 岩波文庫 p.70 原書初版は1954年>
 トロイア戦争――10年にわたるような大戦争としての――がはたしてあったかどうかは、フィンリーの否定説が出されてから論争となり、現在も意見が分かれている。しかし、同書の訳者下田氏の解説によると、最近ではトロイアの港とその周辺の発掘によって、トロイア戦争が実際に行われたという説が有力となっているという。<p.377>
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ノートの参照
1章2節 イ.エーゲ文明
書籍案内

村川堅太郎他
『ギリシア・ローマの盛衰』
1993 講談社学術文庫

フィンリー/下田立行訳
『オデュッセウスの世界』
1994 岩波文庫
DVD案内

『トロイのヘレン』
ロッサノ・ポデスタ主演
1955 ロバート・ワイズ監督

ブラッド・ピットの近作『トロイ』もあるが未見。