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兵制改革/職業軍人制

共和政ローマの前107年、マリウスは徴兵制による市民軍原則による軍隊から、無産市民からの志願者を兵士とし、職業的な軍人を主力とする軍制に転換を図った。その結果、ローマの兵制は有力者が私兵を抱えるのが実態となった。

 グラックス兄弟の改革が失敗に終わったこともあってローマ共和政が変質し、ポエニ戦争マケドニア戦争など戦争が長期化したことと属州がひろがったことなどによって、中小農民の没落が明確となり、前2世紀末には中小農民を重装歩兵とするいわゆる「市民軍の原則」は成り立たなくなっていた。
 一方、ローマの周辺では前111年ユグルタ戦争が起こった。ローマの保護国ヌミディア王国の王位継承の争いに介入した戦争であったが、すでに市民軍制が弱体化したローマ軍は苦戦し、その鎮圧に苦慮することとなった。前107年マリウスは、コンスルとなると画期的な兵制改革に乗り出し、無産市民を志願兵として採用し、職業軍人として育成することに変更した。全ての兵士には長槍と剣を与え、新しい部隊の編制を目指した。マリウスは新たに編成したローマ軍を引いてヌミディアに再出兵し、前105年にそれを鎮圧することに成功した。
 ローマはひき続き、同盟市戦争ミトリダテス戦争、北方のゲルマン人(キンブリ人・テウトネス人)との戦争が続き、さらにスパルタクスの反乱などの奴隷反乱が起きるが、いずれも新しい兵制で戦った。しかし、現実には兵士はもはや国家としてのローマを支えるのではなく、有力者の私兵となり、マリウス以下、スラやポンペイウス、カエサルなどの私兵を抱えた強大な軍事勢力が抗争することとなる。それが前1世紀の「内乱の1世紀」である。

マリウスの兵制改革

  • 背景 共和政ローマを支えていたのは本来、武器を自弁して重装歩兵となる義務を負うローマ市民(平民=農民)から徴兵した市民軍であったが、前3~前2世紀のポエニ戦争などの外征が長期化するなかで次第に没落し、ローマ市民軍は維持できなくなってきた。グラックス兄弟の改革は彼らの没落に歯止めをかけようとしたが失敗し、社会の根本からの改革は困難な状況になっていた。そのような中で登場したマリウスが行った軍政改革は、応急の危機打開策、即効性のある改革として実行された。
  • 内容 そのポイントは、無産市民(貧民)で志願するものに無償で武器と武具を与えて兵籍に入れ、給与を支払うというものであった。従って志願した者は経済的に安定した職業としての軍人となり、しかも戦利品の分け前や一時金の恩恵に浴することもあり、退役後は一定の土地が与えられることもあった。
  • 影響 軍の将軍たちは自己の指揮権に従わせるために志願兵にさまざまな便宜を与えた。その結果、兵士は国家に仕えるのではなく、将軍の私兵としてそれに忠誠を誓うようになる。多くの私兵を擁した将軍が、政治的にも力を持つようになり、ローマの権力をめぐって争う「内乱の1世紀」へと突入していく。

参考 兵制改革の評価

 マリウスの兵制改革については、前107年のこの改革で「市民軍から傭兵軍へ」一挙に転換した訳ではないという、次のような慎重な指摘もある。
(引用)このマリウスの(兵制上の)新機軸は、戦術面での革新もふくめて「マリウスの兵制改革」と呼ばれ、ローマの軍隊が、市民軍から無産市民出身の職業的兵士から成る傭兵隊へと変貌し、特定の将軍とのあいだに庇護関係(クリエンテーラ)を結び、私兵化する端緒となったとされてきた。しかし、市民の徴兵は継続し、無産市民出身の兵士も退役時に土地の配分を受けて中小農民(徴兵資格を有する歩兵等級の市民)となることから、この兵制改革が、ただちに職業的兵士や傭兵隊の出現をもたらしたとは考えられない。ただし兵士と将軍のあいだの庇護関係が、このあとのローマの政治において大きな役割を果たしたことは事実と考えられる。<島田誠『古代ローマの市民社会』世界史リブレット③ 1997 山川出版社 p.27>
 → ローマ帝国の軍隊
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島田誠
『古代ローマの市民社会』
世界史リブレット3
1997 山川出版社