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ユグルタ戦争

前2世紀末のローマと北アフリカのヌミディア王ユグルタとの戦争。将軍マリウスが兵制改革を行うことで鎮圧に成功した。

 前111~前105年、北アフリカのヌミディア王ユグルタがローマに反旗を翻したことに対するローマの討伐戦争。ヌミディアとは、北アフリカのベルベル人国で、現在のアルジェリアにあたり、カルタゴの西にあった。もとはカルタゴの友好国で勇敢なヌミディア騎兵を提供していたが、マッシニッサ王の時、ローマ側に付いたことから第3回ポエニ戦争(前149~前146年)のきっかけとなった。その後もローマの保護国となって続いていた。
 そのヌミディア王国の王位継承争いから、その王ユグルタがローマに反旗を翻し、前111年にローマが鎮圧に当たったことからユグルタ戦争が起こった。前111年、ローマは討伐軍を派遣し戦闘が始まったが、苦戦が続き、前107年、執政官となったマリウス兵制改革を断行してローマ軍の再編に成功し、みずから傭兵軍団を率いて出兵し、前105年までに鎮圧して属州アフリカに編入して地中海支配を拡大した。カエサル時代の歴史家サルスティウスが『ユグルタ戦争』を書き残している。

ローマ苦戦の事情

 ローマでは、前3~2世紀のポエニ戦争を契機として中小農民の没落が進み、前2世紀末のグラックス兄弟の改革も失敗し、元老院議員クラスの有力者によるラティフンディア(大土地所有)が拡大しつつあった。そのため、ローマ軍はかつてのポエニ戦争の時期のような市民による重装歩兵部隊が弱体化していた。その問題点が露呈したのがローマにとってのユグルタ戦争の意味であった。

ユグルタ戦争の経緯

ユグルタ王 アフリカの北岸のヌミディア王国は、すでにローマの保護を受けていたヌミディア王マッシニッサが亡くなると、ミキプサが王位を継承した。そのもとで王の庶子(妾腹の子)ユグルタが実権を握った。ミキプサ王が没した後、王位継承の争いが起きると、ユグルタは嫡出の王子を殺し、もう一人の王子と戦うこととなった。ユグルタはローマに裁定を求め、ローマから調査団が派遣されたが、ユグルタは調査団にたっぷりと賄賂を贈った。ユグルタはローマに召喚されたが、そこでも庇護民から保護者への贈り物が認められていたことをさいわいに、多数の元老院に対して賄賂を送り王位の継承に成功した。
ローマ軍の苦戦 ローマではユグルタの不正に批判の声が強まる中、ヌミディアで多数の在留イタリア人が殺害される事件がおこり、前111年、元老院も無視できず、戦争に踏み切る。その後、相次いでローマ軍が投入されたが、ヌミディア兵の抵抗も激しく、苦戦が続いた。そのうち明らかになってきたのが、ローマ市民軍の弱体化であった。
マリウスの改革 ユグルタ戦争に副官として従軍していたマリウスは、前107年に執政官選挙に立候補、賄賂を受けとっていた元老院議員を非難すると平民の支持を集めて当選し、ただちに兵制改革を行った。それは無産市民から志願兵を採用し、きびしい訓練をほどこして職業的軍人を育成して軍事力を再建することであった。その結果、従来の徴兵による市民軍制から、傭兵による職業軍人制への転換がはかられた。
マリウスとスラの不和の始まり マリウスはみずからローマ軍の総指揮を執り北アフリカに遠征し、ヌミディア軍を破った。ユグルタは降伏し、マリウスの街宣車に乗せられてローマに運ばれ、処刑された。この闘いを勝利に導いたマリウスの人気は高まり、その後何度も執政官に詩選されるが、実はユグルタの身柄を捕らえたのは、マリウスの部下として従軍していたスラだった。その功績をマリウスに横取りされた形となったスラは、深くマリウスを妬むようになる。 → 内乱の1世紀
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ノートの参照
1章3節 ウ.内乱の一世紀