印刷 | 通常画面に戻る |

マケドニア戦争

前3~前2世紀のローマによるマケドニア征服戦争。勝利したローマはギリシアを分割して属州化し、東地中海に進出、地中海支配を完成させた。

 イタリア半島を統一した共和政ローマは、地中海対岸のカルタゴとのポエニ戦争を戦い、それに勝利して西地中海の覇権を獲得した。一方、第2回ポエニ戦争の時期に並行して、ローマはギリシアにおけるアンティゴノス朝マケドニアと諸都市の対立に介入して出兵し、前215~前167年の間に3度にわたるマケドニア戦争でマケドニアを制圧してマケドニアを滅亡に追いこんだ。さらに前149~前148年、マケドニア王の遺族の蜂起(これを第4次とすることもある)を鎮圧し、前146年までにギリシア諸都市をその支配に収め、東地中海・ギリシアまで領土を拡大した。

マケドニア戦争の経緯

第1回 前215~前205年 第2回ポエニ戦争の時、カルタゴと同盟関係を結んだマケドニアのフィリッポス5世が前215年に即位しローマに反旗を翻したので、翌前214年にローマが出兵した。ローマはカルタゴとのカンネーの戦いで大敗北を喫した直後に当たっていたので、兵力が整わず苦戦したが、ギリシアの諸都市がマケドニアに反発していたので、その力で和平協定に持ち込んだ。
第2回 前200~前196年 マケドニアとセレウコス朝シリアが結びついたことに脅威を感じたアテネロードスペルガモン王国の諸国がローマに支援を要請した。ローマでは民会は派兵を否決したが、元老院は慎重論を抑えて派兵に踏み切り、マケドニア軍を破った。しかしギリシア諸都市の自由独立を保障して、占領せずに撤退した。
ハンニバルの反ローマ活動 なおこの間、前202年のザマの戦いに敗れたハンニバルがカルタゴを離れ、セレウコス朝シリアに亡命し、ローマとの戦争を働きかけた。セレウコス朝のアンティオコス3世はその企てにのり、勢力を西方に拡大しようとした。それに対して前192年、ローマはカトーが海軍を率いて遠征、セレウコス海軍を破り、またハンニバルの率いた海軍もロードス海軍に敗れた。その後もハンニバルの抵抗は続いたが、ローマは前188年にアパメアの和約でセレウコス朝と講和し、莫大な賠償金を課した。しかしこのときも征服地を領土化することなく、全軍を引き上げた。前183年、ついにハンニバルは自殺し、その抵抗は終わった。
第3回 前171~前167年 マケドニアがみたびローマに戦いを挑んだが、前168年ピュドナの戦いで大敗し、マケドニア王国は滅亡した。この時は前2回と異なり、マケドニアの領土は4つの共和国に分けられた後、ローマの属州とされた。
ローマのギリシア諸都市征服 マケドニア戦争は前167年のマケドニアの滅亡で終わったが、ギリシア本土にはなおも都市国家(ポリス)が存続し、アカイア同盟を維持していた。アカイア同盟はマケドニア戦争ではローマを支援したが、都市の内部では富裕市民はローマとの同盟を望んだのに対して、下層市民の中に反ローマ感情が強まっていた。中継貿易で栄え、反ローマの中心であったコリントは前146年にローマとの開戦に踏み切ったが大敗した。ローマはコリントを徹底的に破壊、マケドニアとギリシアを合わせて属州とした。この年、西地中海ではポエニ戦争が最終段階を迎え、カルタゴも破壊され、ローマの西地中海支配は完了した。ローマが地中海全域を支配して「我らが海」とするのは、アクティウムの海戦プトレマイオス朝エジプトを破る前31年のことである。

ヘレニズム末期のギリシア

 アレクサンドロス帝国が崩壊した後のヘレニズム時代のギリシアは三つの大きな勢力に分かれていた。一つはヘレニズム3国の一つのアンティゴノス朝マケドニアで、その王フィリッポス5世は東地中海への進出をもくろみ、カルタゴとも同盟していた。次はヘレニズム時代にも独立を維持していたスパルタやロドスなどポリス、三つ目がポリスの枠組みを超えたいくつかの連邦国家で、その一つがペロポネソス半島のメガロポリスなどが結成したアカイア連邦であった。これらの勢力が対立・抗争する中で、マケドニアの南進を恐れたポリスがローマに援軍を要請したことから、ローマの介入が始まった。
 前168年、ピュドナの戦いでマケドニアが敗れた時、千人のギリシア人知識人が人質としてローマに連れてこられたが、その中の一人がアカイア連邦の将軍であり政治家であったポリビオスであった。彼は後にスキピオ(小)のギリシア語の教師となり、第3次ポエニ戦争に従軍してローマの勝利を目の当たりにし『歴史』を著すことになる。このように、マケドニア戦争の結果として、ギリシア文化がローマにもたらされることになった。<周藤芳幸『物語古代ギリシア人の歴史』2004 光文社新書 p.242->

マケドニア戦争の意義

 マケドニア戦争の勝利とその後のギリシア諸都市の征服によって、ローマは巨額の賠償金や多数の奴隷だけでなく、ギリシアを属州として支配し、税を徴収することになった。この属州の獲得は、共和政ローマの性格を形骸化させ、「帝国」への転換の促すこととなった。また文化的には、ギリシアを征服したことによって、ヘレニズム文化がローマに一気に流入してくることとなったことが重要である。また東地中海にまで通商圏が広がり、経済活動が活発化し、ローマなどのイタリア各地にギリシア風の都市、建築、彫刻が見られるようになった。
(引用)ギリシアや小アジアに遠征したローマの将軍、兵士は、ヘレニズム文化に直接接触し、彼らが都ローマに持ち帰る戦利品によってローマ市民もその魅力を知るようになります。特に第2次ポエニ戦争で活躍したスキピオ(大)一族を中心とするギリシア主義は市民の共感を得てローマ社会にひろく普及し、ヘレニズム世界の王朝文化と商人貴族に由来する贅沢(ルクスリア)というあたらしい価値観が定着していきました。もちろん、質実剛健なローマの伝統を重んじる大政治家カトーのような外来文化をきびしくいさめる者もいました。しかし、紀元前2世紀前半の代表的詩人エンニウスが恩人であるカトーのもとを離れ、スキピオに庇護を求めたのは、そのような社会状況の変化を物語る象徴的な出来事でした。<青柳正規『ローマ帝国』2004 岩波ジュニア新書 p.56>
属州支配の完成の意味 マケドニア戦争、ポエニ戦争によってローマの地中海世界支配は完成し、獲得した土地は属州(プロヴィンキア)としてローマの統治を受けることとなった。属州は総督とその徴税請負人によって搾取され、多額の税がイタリア本土に送られた。そのためイタリアのローマ市民の税負担はほぼなくなった。しかし、属州からの大量の穀物の流入は、穀物価格を低下させ、イタリア本土の中小農民の利益が激減することとなり、それが中小農民の没落の要因となった。一方、徴税請負人となって富を蓄えた騎士(エクイテス)は、元老院に対抗する力を持つようになり、彼らの台頭が次の前1世紀の内乱の1世紀の背景となっていく。
印 刷
印刷画面へ
書籍案内

周藤芳幸
『物語古代ギリシア人の歴史』
2004 光文社新書

青柳正規
『ローマ帝国』
岩波ジュニア新書