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マケドニア戦争

前3~前2世紀のローマによるマケドニア征服戦争。勝利したローマはギリシアを属州化し、東地中海に進出、地中海支配を完成させた。

イタリア半島を統一した共和政ローマは、カルタゴとのポエニ戦争を戦い、それに勝利して西地中海の覇権を獲得した。一方、第2回ポエニ戦争の時期に並行して、ローマはギリシアにおけるアンティゴノス朝マケドニアと諸都市の対立に介入して出兵し、前215~前167年の間に3度にわたるマケドニア戦争でマケドニアおよびギリシアの諸都市を制圧して、その支配を東地中海・ギリシアまで拡大した。

マケドニア戦争の経緯

第1回 前215~前205年 第2回ポエニ戦争の時、カルタゴと同盟関係にあったマケドニアがローマに反旗を翻したのでローマが出兵した。カルタゴとの戦争ではちょうとカンネーの戦いの時に当たっていたので、ローマは苦戦したが、ギリシアの諸都市がマケドニアに反発していたので、その力で和平協定に持ち込んだ。
第2回 前200~前196年 マケドニアとセレウコス朝シリアが結びついたことに脅威を感じたアテネロードスペルガモン王国の諸国がローマに支援を要請した。ローマでは派兵に慎重な意見は抑えられ、派兵に踏み切って優勢に戦いを進めたが、征服占領には至らず和平条約を締結して撤退した。
 なおこの間、セレウコス朝シリアが勢力を西方に拡大しようとしたことにたいして、ローマは軍隊を派遣し、前188年にアパメアの和約で講和し、シリアは莫大な賠償金を課せられた。
第3回 前171~前167年 マケドニアがみたびローマに戦いを挑んだが、前168年のピュドナの戦いで大敗し、マケドニア王国は滅亡、4つの共和国に分けられた後、ローマの属州とされた。ローマはさらに南のギリシアに侵入、コリントなどのポリスを破壊し、マケドニアとギリシアを合わせて属州とした。

ヘレニズム末期のギリシア

 アレクサンドロス帝国が崩壊した後のヘレニズム時代のギリシアは三つの大きな勢力に分かれていた。一つはヘレニズム3国の一つのアンティゴノス朝マケドニアで、その王フィリッポス5世は東地中海への進出をもくろみ、カルタゴとも同盟していた。次はヘレニズム時代にも独立を維持していたスパルタやロドスなどポリス、三つ目がポリスの枠組みを超えたいくつかの連邦国家で、その一つがペロポネソス半島のメガロポリスなどが結成したアカイア連邦であった。これらの勢力が対立・抗争する中で、マケドニアの南進を恐れたポリスがローマに援軍を要請したことから、ローマの介入が始まった。前168年、ピュドナの戦いでマケドニアが敗れた時、千人のギリシア人知識人が人質としてローマに連れてこられたが、その中の一人がアカイア連邦の将軍であり政治家であったポリビオスであった。彼は後にスキピオ(小)のギリシア語の教師となり、第3次ポエニ戦争に従軍してローマの勝利を目の当たりにし『歴史』を著すことんある。このように、マケドニア戦争の結果として、ギリシア文化がローマにもたらされることになった。<周藤芳幸『物語古代ギリシア人の歴史』2004 光文社新書 p.242->

マケドニア戦争の意義

 征服戦争であったマケドニア戦争の勝利によってローマは巨額の賠償金や多数の奴隷だけでなく、ギリシアを属州として支配し、税をちょうすることになった。この属州の獲得は、共和政ローマの性格を形骸化させ、「帝国」への転換の促すこととなった。また文化的には、ギリシアを征服したことによって、ヘレニズム文化がローマに一気に流入してくることとなったことが重要である。また東地中海にまで通商圏が広がり、経済活動が活発化し、ローマなどのイタリア各地にギリシア風の都市、建築、彫刻が見られるようになった。
(引用)ギリシアや小アジアに遠征したローマの将軍、兵士は、ヘレニズム文化に直接接触し、彼らが都ローマに持ち帰る戦利品によってローマ市民もその魅力を知るようになります。特に第2次ポエニ戦争で活躍したスキピオ(大)一族を中心とするギリシア主義は市民の共感を得てローマ社会にひろく普及し、ヘレニズム世界の王朝文化と商人貴族に由来する贅沢(ルクスリア)というあたらしい価値観が定着していきました。もちろん、質実剛健なローマの伝統を重んじる大政治家カトーのような外来文化をきびしくいさめる者もいました。しかし、紀元前2世紀前半の代表的詩人エンニウスが恩人であるカトーのもとを離れ、スキピオに庇護を求めたのは、そのような社会状況の変化を物語る象徴的な出来事でした。<青柳正規『ローマ帝国』2004 岩波ジュニア新書 p.56>
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ノートの参照
第1章3節 イ.地中海征服とその影響
書籍案内

周藤芳幸『物語古代ギリシア人の歴史』
2004 光文社新書

青柳正規『ローマ帝国』
2004 岩波ジュニア新書