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フォルム/フォロ=ロマーノ

古代都市ローマの公共広場(ローマ広場)。共和制時代には市民が集まり、民会や裁判が開かれていた。帝政下では劇場、公共浴場、神殿などが建設された。現在のローマにも遺跡として残る。

民会、裁判などの開催された公共広場

フォロロマーノ

フォロ=ロマーノの遺跡。 (トリップアドバイザー提供)

 ローマ市を構成している7つの丘のなかのカピトリウムの丘、パラティヌスの丘、クィリナリスの丘などに囲まれた低湿地を前7世紀の終わりごろに排水して作ったのがフォルム=ロマーヌム(ローマ広場)である。カピトリウムの丘の西側には「マルスの野(カンプス=マルティウス)」があり、この二ヶ所はの共和政時代には建物は無く、空閑地であって、いずれも市民が集会を開く場所であった。違いは、本来のローマ市内にあるフォルムは主に神事(神々に犠牲を捧げる)や市民の集会(民会)、裁判などが行われたのに対して、マルスの野はローマ市外の扱いであったので、主に将軍の凱旋式など軍事パレードがおこなわれた(都市国家ローマでは武装したままでは市内に入れない決まりがあった)。
 共和政時代のフォルム(ローマ広場)は北西から南東に細長く広がり、北西にはコンコルディア神殿とサトゥルヌス神殿、南東にはウェスタ神殿とレギア(王宮)といわれた建物があり、その南がパラティウム(アウグストゥスなど有力者の邸宅が並んでいた)に接していた。広場の長い方の二つの辺に沿ってタベルナエ(店屋)やバシリカ(列柱に囲まれた多目的ホール)が立ち並んでいた。
 広場の北の角にはコミティウムと呼ばれる市民の集会所が設けられ、そこで民会が開催され投票も行われていた。その北側にクリアと呼ばれた元老院議場があった。その他広場の周辺にはロストラ(演壇)、カストル神殿などが並んでいた。このようにローマのフォルムは、神事と民会、元老院会議、さらに裁判などの行われる、都市国家の中枢部であった。また、共和政期までは、剣闘士試合などの市民向けの見世物もここで行われていた。<島田誠『コロッセウムからよむローマ帝国』1999 講談社選書メチエ p.40-45> → ローマ文化

フォルムの変化

 共和政末期のカエサルは、ローマ広場の集会所を撤去し、カエサル家の守護神を祭る神殿を建設するとともに、別なところに広場を作った。これらは初代皇帝アウグストゥスに継承され、カエサル神殿、カエサル広場として完成させた。さらにアウグストゥスはローマの広場の空閑地にいくつもの公共建造物を建て、フォルムは広場としての役目がなくなっていった。またマルスの野にもパンテオンを初めとする公共建造物が次々と建てられ、共和政時代の市民が集会する広場という意味はともに失われていった。さらに、剣闘士試合などの見世物を興行する広場もなくなったので、その代わりとしてコロッセウムが建造されたのだった。<島田誠『コロッセウムからよむローマ帝国』1999 講談社選書メチエ p.60-73> → パンと見せ物

皇帝たちのフォルム

 カエサル以後、皇帝たちはそれぞれローマ市内のどこかに新たな広場を建設し、そこは皇帝の名でよばれるようになった。新たな広場を置かなければ皇帝にはローマを統治できないかのようだ。前50年代後半に始まったカエサル広場の建設、初代皇帝アウグストゥスは守護神アポロの神像を中心としたアウグストゥス広場、ウェスパシアヌス帝はユダヤから奪った宝物や遺物を収めた神殿を中心とした「平和の広場」、ドミティアヌスが建造をはじめ、ネルウァが完成させた広場、そしてトラヤヌスはダキア遠征の勝利を浮き彫りした巨大な円柱を中心として広場、などが次々と建造されていった。<フィリップ・マティザック/安原和見訳『古代ローマ旅行ガイド』2018 ちくま学芸文庫 p.228-232>
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ノートの参照
1章3節 ケ.ローマの生活と文化
書籍案内

島田誠
『コロッセウムからよむローマ帝国』
1999 講談社選書メチエ

フィリップ・マディザック
/安原和見訳
『古代ローマ旅行ガイド――1日5デナリで行く』
2018 ちくま学芸文庫