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会昌の廃仏

中国の唐代の仏教弾圧。

 唐の後期、唐の仏教の隆盛の中で、武宗の時(845~846年)に行われた仏教弾圧。三武一宗の法難の一つ。会昌(かいしょう、またはえしょう)とは時の年号。武宗は4600の寺院を破壊し、26万5百人の僧尼を還俗(僧籍を離れ一般人になること)させ、寺院に隷属していた奴婢15万を解放した。このときの仏教弾圧に直面した日本からの留学僧円仁は、『入唐求法巡礼行記』に詳しく記録している。<布目潮渢・栗原益男『隋唐帝国』講談社学術文庫 p.401-405>

仏教弾圧の背景

 背景には武宗が道教を篤く信仰していたことと、当時の寺院の中に腐敗堕落したものがあったことなどもあるが、財政難に苦しむ唐王朝が寺院の財産を没収し、税収を増加させようとしたねらいもあった。事実、この時破壊された寺院の荘園などの財産は国家に没収され、還俗僧と解放された奴婢は一般農民に編入され両税法の負担戸とされた。また没収された仏具は銅銭と農具の材料に回された。このようにこの廃仏は経済的な理由によるものであり、仏教そのものが否定されたわけではなく、長安と洛陽にはそれぞれ4寺院、各州に1寺院は残された。それにしても仏教にとっては大打撃であり、これにより鎮護国家仏教の時代は終わったと言える。

三夷教に対する弾圧

 また、仏教のみならず、景教(ネストリウス派キリスト教)、ゾロアスター教祅教)、摩尼教の三夷教も弾圧され、唐文化の国際性という特徴も終わりを告げることとなった。

Episode 道士にだまされた?武宗

(引用)「武宗は仏教排斥をおこなったことで有名であるが、排仏の裏にはつねに道教派の策動があり、道士が天子に取り入る手段は、常に不老不死の強壮薬を進めることであった。しかるにこの強壮薬ははなはだ危険な代物で、これまで何人の帝王がそのために精神錯乱におちいったり、死期を早めたりしたか知れなかった。武宗もまたその愚かな犠牲者のひとりであり、薬をのんで身体の異状を感じたが、道士らは「それは陛下の骨に仙人の骨が入れかわったためで、なが生きの証拠です」とあざむいた。しかし現実はあざむくことができず、まもなく天子が病没すると、宦官らはその叔父に当たる宣宗をかつぎ出して天子の位につけた。」<宮崎市定『大唐帝国』中公文庫版 p.397 1968>
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第3章2節 イ.唐の制度と文化
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布目潮渢・栗原益男『隋唐帝国』講談社学術文庫版

宮崎市定『大唐帝国』
中公文庫版