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摩尼教

ササン朝で始まったマニ教が、7世紀末にソグド人などによって中国に伝わり、唐で摩尼教と言われた。

 まにきょう。3世紀頃、ササン朝ペルシアに始まるマニ教が、ソグド人などを通じて唐に伝わり、摩尼教(または明教)と言われた。中国で摩尼教の信者となった多くはモンゴル人であった。

摩尼教の伝来

 694年、マニ教徒の教師(佛多誕)ミフル・オフルミドが、はじめて唐の宮廷を訪れ、則天武后と会見してマニ教の信仰を説いて布教が許された。マニ教の漢訳教典に、689年から705年の間しか使われなかった則天武后が作った則天文字が含まれているので、この時期にマニ教が伝わったことは間違いない。唐代には他に仏教景教(ネストリウス派キリスト教)、祆教(ゾロアスター教)、回教(イスラーム教)が伝えられており、その中ではマニ教の伝来は遅い方だった。摩尼教と言われ、バビロニア伝来の天文学や暦法の知識をもたらしたと言われている。<山本由美子『マニ教とゾロアスター教』1998 世界史リブレット p.71>
安禄山の乱 唐で安史の乱(755~763年)が起きると、唐朝は中央アジアのトルコ系遊牧民のウイグル人に援軍を要請した。唐を助け、反乱軍を鎮圧して762年に洛陽に入ったウイグルの可汗牟羽(ほうう)がマニ教に改宗して保護したので、マニ教は中国全土に広がり、摩尼教と言われるようになった。しかし、840年にウイグルがキルギスに敗れ、ウイグルの領土が高昌とその周辺地域に限られると、中国各地でウイグルに対する反感が吹き出し、マニ教寺院も破壊された。
 摩尼教は845年の唐の武宗の会昌の廃仏の際に、仏教とともに禁止され、中国での布教はほぼ終わった。その後、難を逃れた一人の摩尼僧によって福建の泉州に移り、一種の秘密結社のような組織として長期にわたって存続し、元代には民間の仏教信仰と混合して、白蓮教などのもとになる。

長安の摩尼教

 中国の唐代の768年には、長安に大雲光明寺という摩尼教の寺院が建設されている。しかし唐末の武宗の仏教弾圧(会昌の廃仏)の際、摩尼教も禁止された。三夷教と言われたうち、祆教(ゾロアスター教)・景教(ネストリウス派キリスト教)は中国では早く衰えたが、摩尼教は宋や元、明代まで信者が存在した。摩尼教徒はソグド人の間で用いられていた日月火水木金土の七曜を中国に伝えるなど、東西文化の交流に見るべきものがある。<石田幹之助『長安の春』東洋文庫 p.288>
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書籍案内

石田幹之助
『長安の春』
講談社学術文庫

山本由美子
『マニ教とゾロアスター教』
1998 世界史リブレット 4