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大都

1267年にフビライが建設した元の都。現在の北京。マルコ=ポーロなども来訪。運河の通恵河で外洋と通じていた。

 の都で現在の北京にあたる。1267年フビライ=ハンは復都の一つであった冬の首都中都の東北に、それを上回る都城を建設し、大都大興府と称した。中都はかつて燕京と言われ、戦国時代からの要地であり、金の都ともなったところであるが、フビライの建設した新都はしの一部は重なっているが中心は北東に移っており、まったく新しい都と言っていい。大都の城郭は当時、「周囲六十里十一門」といわれたが、実測では約28.6kmであったという。その南部中央に宮城がつくられ、市街は南北の街路で区画され、一区画は坊と言われた。1266年に大都建設を宣言し、翌67年には遷都したが、完成したのは1293年で、フビライはその翌年に死去する。

大都の特徴

 周礼に見られる古代中国の理想の中華式帝都として建設された。その設計は儒仏道の三教に通じた漢人があたった。壮大な帝都であったが、実はハンたちはほとんど大都の城内には入らず、郊外の野営地に壮大な天幕の宮殿ですごすのを好んだ。大都は「住む」ための都ではなく、統治に必要な人と物を収めておく「器」であった。最大の都市機能は、大都が内陸にありながら、なんど巨大な都市内港をもっていたことである。しかもその港は、通恵河を通じて通州に至り、そこから白河によって海港の直沽(現在の天津)で外洋に通じていた。<杉山正明『モンゴル帝国の興亡』1996 講談社現代新書 下 p.30-34>

国際都市としての大都

 大都には多くの仏教寺院、チベット仏教の寺院、道教の道観、キリスト教の教会、イスラーム教のモスクが立ち並んでいた。現在も元時代の建物も見られる。また大都には、世界各地から使節や商人がやってきて、国際都市として繁栄した。ヨーロッパからやってきたマルコ=ポーロの『東方見聞録』では、大都はカン=バリク(ハンの都の意味)と言われて紹介されている。またモンテ=コルヴィノ、イスラーム教徒でモロッコ人のイヴン=バトゥータなどが西方から訪問している。<陳高華『元の大都 マルコ・ポーロ時代の北京』1984 中公新書>