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コルドバ

イベリア半島の都市でローマ時代には属州バエティカの州都、8世紀から後ウマイヤ朝の都としてイスラーム文化が栄えた。レコンキスタにより、1236年にカスティリャ王国が併合した。

コルドバ位置地図
コルドバの位置(Yahoo Map)

ローマ時代のコルドバ

 イベリア半島南部、現在のスペイン、アンダルシア地方の中心部、グアダルキビル川の中流にある古都。はじめイベリア半島に進出したローマ人の都市として作られ、ポエニ戦争の後、属州ヒスパニアの一部となった。ローマ帝国全盛期には、属州バエティカの州都となった。イベリア半島のローマ文化の中心都市として栄え、ストア哲学者として有名なセネカはこの都市の出身であった。

後ウマイヤ朝の首都

 8世紀初め、イスラームの西方征服がすすみ、イスラームのヨーロッパ侵入によってイベリア半島でも西ゴート王国が滅ぼされた。ウマイヤ朝がアッバース朝によって滅ぼされた際、ウマイヤ朝の一文がイベリア半島に逃れ、756年に後ウマイヤ朝を設立すると、その首都となった。後に後ウマイヤ朝もカリフを名乗り、当方のバクダードに対抗するようになり、コルドバは、西方イスラーム世界の中心となった。
 10世紀ごろには最盛期となり、中世ヨーロッパに接するイスラーム文化の最先端の地として、ヨーロッパの諸国からも留学生が集まり、トレドとともに学問、文化の中心地となった。1031年に後ウマイヤ朝は内紛から滅亡し、イスラーム勢力が分裂することによって、13世紀になると国土回復運動(レコンキスタ)が一段と盛んになった。コルドバは1236年、キリスト教国カスティリャ王国に併合された。

Episode コルドバの繁栄-共存が発展を産んだ

 10世紀の後ウマイヤ朝の都コルドバは、世界でも有数の大都会であった。史料によれば、モスクの数1600、高官や貴族の邸宅6万300、庶民の家21万3077、店舗8万455を数え、人口は50万を下らないと推計されている。コルドバは洗練された文化の都でもあった。クリスタル・ガラスの製造は9世紀後半コルドバで発明され、金・銀の細工師の技術はビザンツ帝国のそれと競うほどであった。バグダードからやって来たジルヤーブは、コルドバの宮廷で召し抱えられ、ウード(琵琶の一種)の演奏や歌手として名声を博した。彼はまた、バグダードの多くの優雅な文化をコルドバの市民に伝えた。・・・各地からユダヤ教徒がイスラームのスペインに移住してきた。首都コルドバはムスリムだけでなく、多数のキリスト教徒とユダヤ教徒が住み、商業や文化活動に参加していた。<『都市の文明イスラーム』新書イスラームの世界史1 講談社現代新書 私市正年 p.200>
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4章1節 エ.イスラーム帝国の分裂