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ガズナ朝

10世紀、アフガニスタンのガズナを都とした、トルコ系イスラーム王朝。11世紀のマフムードはたびたび北インドに遠征したが、それは略奪が主な理由であり、恒常的にインドを支配することは無かった。

 962年、アフガニスタンのガズナに起こったトルコ系のイスラーム王朝でイラン東部からアフガニスタン、インドの一部まで支配した。もとはサーマーン朝に仕えるトルコ人奴隷兵士(マムルーク)出身の親衛隊長であったアルプテギンは、ガズナに独立政権を樹立した。その奴隷であったセブクテギンはアルプテギンの死後、おされてガズナ朝の君主となり、北方のカラ=ハン朝と争い、さらに東方の肥沃なインドのパンジャブ地方に進出した。これがイスラーム勢力のインド進出の最初であった。

ガズナのマフムード

 セブクテギンの子のマフムード(在位998~1030年)は、ガズナ朝の全盛期をもたらし、アフガニスタン、イランを平定して、1008年にはさらにカイバル峠を越えて、インドの北西部パンジャーブ地方に進出した。さらにインド内部に前後17回も出兵し、ヒンドゥー教のラージプート諸侯と戦い、1018年には都カナウジを攻略し、北インドのプラティーハーラ朝を滅ぼした。
 彼は、「ガズナのマフムード」と云われて、インドのヒンドゥー教徒に記憶されている。しかし彼のインド遠征は、もっぱら財宝の略奪を目的としており、ガンジス流域の北インドを恒久的に支配しようとするものではなかった。

パンジャーブだけの支配となる

 1030年、マフムードが死ぬと後継を巡って内紛が生じ、弱体化した。1040年、西方のセルジューク人に敗れて王国の西半分を失うと、それまでガズナ朝に従っていたトルコ系やアフガン系の豪族が各地で自立し、その中のゴールから出たゴール朝がアフガニスタンで自立した。
(引用)ゴール朝がアフガニスタンを支配するようになると、これに押し出されたガズナ朝はマフムードの死後約125年にしてラーホールを都とするパンジャーブ地方のみの支配となった。パンジャーブ地方にガズナ朝が残ったことは、その後のムスリム軍事業団による北インド侵攻に足場を用意したことになり、その歴史的意義は大きい。<佐藤正哲/中里成章/永島司『ムガル帝国から英領インドへ』世界の歴史14 中央公論新社 1998 p.26-27>

ガズナ朝の衰退

 しかし、ガズナ朝は、専ら関心をアフガニスタンに向け、インドに目を向けることはなかった。国境を接する北インドのヒンドゥー系であるラージプート諸侯もイスラームの侵攻を受けることがなかったので、相互抗争にふけっていた。
 アフガニスタンでは1163年にゴールに興ったゴール朝が徐々に勢力を拡大し、1173年にはガズナを占領した。ゴール朝は西のホラズムに備えながら、東のパンジャーブのガズナ朝の征服に乗り出し、1186年、ガズナ朝はゴール朝に滅ぼされた。

ガズナ朝の文化

 ガズナ朝のマフムードは文化を奨励し、『シャーナーメ』(王書)を書いた詩人フィルドゥシーを保護し、イラン文化の発展に寄与した。「ガズナのマフムード」は学者や文化人を保護したことで著名である。
(引用)しかし、このことからマフムードが彼らを尊敬し、その仕事と作品を理解し評価していたとは思えない。金銀財宝に執着する彼の猛烈な物欲から推し量るならば、それは「集めた」学者や文化人とその作品からなる「蒐集物」でガズナを飾りたいという彼の蒐集欲と権力の誇示にゆらいするというべきであろう。<佐藤/中里/永島『前掲書』 p.26>
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