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イスラームのインド侵入/インドのイスラーム教

イスラーム教のインドへの波及は8世紀に始まるが、本格化するのは11世紀のガズナ朝から。12世紀のゴール朝に続いて13世紀にデリーを都としたデリー=スルタン朝が続き、ヒンドゥー教徒と抗争しながら16世紀のムガル帝国がほぼインド全土を征服した。

 イスラーム教勢力のインドへの進出は早く、711年に最初の大規模な侵攻がインダス川下流のシンド地方で始まった。ウマイヤ朝のイラク総督ハッジャージュがムハンマド=ビン=カーシムの遠征軍は翌712年、シンド王を戦死させ、その地を征服した。711年はウマイヤ朝がイベリア半島で西ゴート王国を滅ぼした年でもある。しかし、ウマイヤ朝の内紛やインドのヒンドゥー勢力であるラージプート諸国の抵抗もあって、イスラーム勢力の支配はシンド地方より東にはは広がらなかった。 → インドのイスラーム化

ガズナ朝、ゴール朝のインド侵攻

 10世紀後半にアフガニスタンに成立したガズナ朝マフムードは、11世紀初めにパンジャーブ地方からガンジス川流域に前後17回にわたって出兵した。続いてアフガニスタンに登場したゴール朝のムハンマドが1175年に北インド侵攻を開始、1192年にタラーインの戦いでラージプート諸国連合軍を破り、さらに1202年にはベンガルまで進出した。
インド仏教の衰退 この過程で、ヒンドゥー教・仏教・ジャイナ教の寺院は破壊され、信者が迫害された。その結果、民衆とは遊離していた仏教の僧侶たちはインドを離れ、ネパールなどに逃れた。そのため仏教はインドに生まれた宗教であったが、インドでは衰退することとなり、むしろ世界宗教としてインド以外の地に広がっていくこととなる。一方、民衆の生活レベルに定着していたヒンドゥー教徒(それと一部地域ではジャイナ教徒)は、生活を捨てるわけにいかずインドを離れなかった。ガズナ朝とゴール朝は長期的にインドを支配しようとしなかったので略奪だけで北に帰って行ったが、インドに定着をはかった次のデリー=スルタン朝のイスラーム政権は、ヒンドゥー教徒の信仰を認め、彼らの村落での安定した生活を保障しなければならなかった。

インドのイスラーム教政権の成立

 ゴール朝はデリーに奴隷出身の部将アイバクをおいた。1206年、ゴール朝のムハンマドが暗殺されるとアイバクはデリーを都として奴隷王朝を建てた。ガズナ朝とゴール朝はアフガニスタンを本拠としてインドを支配したイスラーム王朝であったが、奴隷王朝からはインドのデリーを拠点として北インドを支配するインドのイスラーム政権と言うことができ、それ以後続く5つの王朝を、デリー=スルタン朝という。
デリー=スルタン朝  奴隷王朝(1206-~90)以降のデリーに都を置いたイスラーム教(スンナ派)を奉じる王朝を総称してデリー=スルタン朝という。それは、ハルジー朝(1290~1320)→トゥグルク朝(1320~1414)→サイイド朝(1414~51)→ロディー朝(1451~1526)をいう。この間、ハルジー朝・トゥグルク朝はデカン高原まで遠征軍を送り、一時ほぼ全インドまでその支配領域を伸ばしている。しかし、トゥグルク朝がデカンに置いた太守は後に自立してバフマン朝(シーア派)を起こしている。なお、トゥグルク朝の後退した南インドにはヒンドゥー教国ヴィジャヤナガル王国(1336~1649)があり、バフマン朝などイスラーム教国と激しく抗争していた。

イスラーム教の浸透の理由

 これらのデリー=スルタン朝はトルコ系またはアフガン系のイスラーム政権であり、それに続く16世紀のムガル帝国も、アフガニスタンからインドに入った、いずれも征服王朝であり、イスラーム教(スンナ派)を信奉する支配者は少数派であり、多数派であるヒンドゥー教徒の民衆を統治するかたちであった。しかしデリー=スルタン朝も成立期のムガル帝国もともにイスラーム教を強制することはなく、村落ではヒンドゥー教徒と共存していた。
 それでも、10世紀に始まる北インドのイスラーム政権による実質支配が続いたこと、ヒンドゥー教改革運動であるバクティ運動と結びついたスーフィーの活動(神秘主義)が受けいれられたことによって次第に浸透していった。インドの民衆の中には、イスラーム教の「アッラーの前にすべての人間は平等である」という教えは、カースト制や古い習慣と結びついたヒンドゥー教から解放してくれる面も持っていた。つまり、イスラームのインド浸透を軍事力だけによる強制と見るのは間違っている。スーフィズムが民衆の心を捉えたことと、イスラーム商人との交易が都市でひろがったことを背景として指摘しなければならない。

ムガル帝国の支配

 1526年、パーニーパットの戦いでロディ朝を破って北インドを支配したムガル帝国も当初はヒンドゥー教徒との融和策をとった。第3代アクバル帝は自らラージプート族の女性と結婚し、非イスラーム教徒に対するジズヤ(人頭税)を廃止して融和を図った。安定したムガル帝国の宮廷ではインド=イスラーム文化が繁栄した。
 17世紀後半のアウラングゼーブ帝はイスラーム教スンナ派を熱心に信仰し、異教徒に対する融和策を転換してジズヤを復活させ、さらにデカン高原のヒンドゥー教勢力マラーター王国を攻撃し、版図を最大に広げた。しかし、ヒンドゥー教徒やシク教は激しく反発し、インドは宗教対立の時代に転換していった。 → インドの宗教対立 インドのイスラーム教徒
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