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ボスニア・ヘルツェゴヴィナ

バルカン半島の一部。スラブ系のボスニア王国が一時栄え、15世紀からオスマン帝国の支配下に入った。

 バルカン半島の中心部に位置し、北と西をクロアティア、東をセルビア、南をモンテネグロに囲まれている。ボスニアとはサヴァ川の支流ボズナ川にちなんだ地名で現在の国土の北部約三分の一を占め、中心都市がサライエヴォである。南部の三分の一がヘルツェゴヴィナ地方といい、海には一部しか面していない。人種的には多数を占めるのがスラヴ系セルビア人やクロアチア人などと同じボスニア人であるが、他の民族に比べてボスニア人としての自覚には乏しいと言われている。住民にはセルビア人やムスリム人といわれるイスラーム教徒がおり、狭い国土に三民族が混在して長い間共存してきたが、ボスニア内戦では民族対立が表面化し、問題を深刻にした。
 → (1)中世のボスニア  (2)オーストリアによる併合  (3)二度の世界大戦  (4)独立と内戦

(1)中世のボスニア

ボスニア王国

 ローマ時代にはこの地域はイリリア人というインド=ヨーロッパ語系の民族が居住していたが、6~7世紀初頭に南スラヴ人が移動してきて定住した。10~12世紀にはセルビア、クロアティア、ハンガリー、ビザンツ帝国などが交互にこの地を支配した。12世紀後半からクリンという指導者が現在のボスニア中部を統一して中世ボスニア王国とい割れる国家をつくり、ボスニア人という観念もできた。
 ボスニア王国は14世紀にヘルツェゴヴィナ地方を併合して最盛期となり、一時はセルビア王国に代わってこの地方の最大勢力となった。この地にはキリスト教の異端のボゴミル派が有力であったらしい。

オスマン帝国の支配とイスラーム化

が、15世紀にオスマン帝国領になると、その支配が400年間続く中でイスラーム教徒が増加し、ムスリム化が進んだ。ムスリムは支配的地位についたが、正教徒、カトリック教徒、ユダヤ教徒など宗教別で統治が行われた。

(2)オーストリアによる併合

1878年のベルリン条約でオーストリアが統治権を獲得。さらに1908年、併合を強行し、ロシア及びスラブ系のセルビア人の反発強まる。

露土戦争

 1875年、キリスト教徒農民がムスリム地主の専横に反発して暴動を起こし、それがボスニア=ヘルツェゴヴィナ全土での反ムスリム暴動に発展した。同じような暴動がブルガリアでも起こると、ロシアはキリスト教徒保護を口実にオスマン帝国に戦争を仕掛けた。それが露土戦争である。ロシアはオスマン帝国を破ったが、その南下を警戒したイギリスとオーストリア=ハンガリー帝国が反発し、1877年のベルリン会議開催となり、その結果、1878年のベルリン条約で、ボスニア・ヘルツェゴヴィナはオーストリア=ハンガリー帝国統治権(領土支配ではなく、行政上の統治だけを行う権利)に入ることが承認された。
 この両州にはセルビア人も多数居住していたので、セルビアの反発は強く、ボスニアはバルカン問題のもっとも尖鋭な対立地点となった。

オーストリアによるボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合

 その後オーストリア=ハンガリー帝国は、パン=ゲルマン主義を掲げ、エーゲ海に面したサロニカに抜ける鉄道敷設を計画した。それに対して、パン=スラヴ主義を掲げるロシアおよび、スラヴ系民族のセルビアはますます反発を強めた。
 1908年にオスマン帝国で青年トルコ革命が起きるとオーストリアは、オスマン帝国の混乱に乗じて一方的にボスニア・ヘルツェゴヴィナ両州の併合を宣言した。それは、ボスニア地方には多数のセルビア人が居住していたことから、その東に国境を接するセルビア王国が強く反発した。ロシアはセルビアを支援してオーストリア=ハンガリー帝国との戦争の危機となったが、ドイツが強硬にオーストリア=ハンガリー帝国を支持し対抗する意志を示したことと、ロシアは日露戦争と第一次ロシア革命の痛手から完全に回復していなかったため、戦争を回避した。

(3)二度の世界大戦

ボスニアのサライェヴォでセルビア人青年がオーストリア帝位継承者を狙撃するサライェヴォ事件が起き、第一次世界大戦が始まる。

サライェヴォ事件

 オーストリアは1908年にドイツの後押しによってボスニア=ヘルツェゴヴィナ併合を強行した。それによって、セルビアの反オーストリア感情はますます強くなり、またロシアも国力の回復を待ってドイツ・オーストリアとの戦争に備えることとなった。そのような緊張が高まる中、1914年にボスニアの州都サライェヴォでオーストリアの皇位継承者が暗殺されるというサライェヴォ事件が起こった。オーストリアはそれをセルビア人の犯行と断定してセルビアに宣戦布告し、それをきっかけに第一次世界大戦が勃発した。

第一次世界大戦後の情勢

 第一次世界大戦でオーストリア=ハンガリー帝国が解体した後、ボスニア=ヘルツェゴビナは1918年にセルブ=クロアート=スロヴェーン王国に加わった。この王国は、1929年よりユーゴスラヴィア王国と改称する。

第二次世界大戦

 第二次世界大戦では、ユーゴスラヴィア王国はナチスドイツに占領されて崩壊、ナチスドイツの傀儡政権クロアティア独立国が作られ、ボスニアもそれに編入された。ティトーに率いられたパルティザンがナチスドイツに激しく抵抗し、1945年4月にサライェヴォも解放され、ボスニア=ヘルツェゴヴィナ人民共和国が成立、翌年、ティトーを指導者とする社会主義連邦制の共和国であるユーゴスラヴィア連邦に加盟した。
冬季オリンピックの開催 1984年、サライェヴォで冬季オリンピックが開催された。これは共産圏で最初の冬季オリンピックであり、冷戦中でありながら西側諸国も参加した。メダル競争では東ドイツ、ソ連が圧倒的な強さを示し、日本はスピードスケート男子500mで北沢選手が銀メダルを取ったにとどまった。なおこのときもサライェヴォ市民の中に反オーストリア感情が強く、暴行を受けるなどでオーストリア選手はアルペンなどの得意種目で活躍できなかった。

(4)独立と内戦

1992年、ユーゴスラヴィア連邦から分離独立宣言。それに反対するセルビア人との民族対立から、95年まで内戦が続いた。

ユーゴスラヴィア連邦の解体

 ボスニア=ヘルツェゴヴィナは、第二次世界大戦後に成立したユーゴスラヴィア連邦を構成する一共和国となった。ユーゴスラヴィア連邦はティトーに率いられて独自の社会主義と非同盟主義を掲げ、戦後の東西冷戦の中で特異な位置を占めていた。しかし、歴史的・文化的(宗教や言語、文字)で異なる民族を寄せ集めた多民族国家であり、「モザイク国家」ともいわれていた。70年代から経済の停滞も目立ちはじめ、80年代に入ると東欧諸国での民主化運動の影響も波及し、複数政党制や言論の自由、経済の自由とともに連邦制の解体を求める声が強くなってきた。ティトー生存中は連邦制の枠組みも力があったが、1980年に彼が死ぬと、次第に分離主義の傾向が強まり、ついに1989年の東欧革命を経た1991年にスロヴェニア、クロアティア、マケドニアが分離を宣言、それを認めないセルビア・モンテネグロとのユーゴスラヴィア内戦が勃発した。

独立とボスニア内戦

 ボスニア=ヘルツェゴヴィナも1992年3月に独立を宣言した。しかしその中心になったのは、ボスニアに居住するムスリム人・クロアティア人たちであって、セルビア人は連邦への残留を主張して独立を拒否し、直ちにボスニア内戦が勃発した。セルビア人勢力はセルビア共和国の支援を受けて、武力的な優位を背景に、ムスリム勢力・クロアティア人勢力を激しく攻撃した。
サライェヴォの荒廃 ボスニアの首都サライェヴォは、1992年4月5日から1996年2月29日までの長期間、セルヴィア人勢力によって包囲され、食糧不足から悲惨な状態が続き、砲撃で破壊された。冬季オリンピックの時に作られた施設の多くもこの時破壊され、町は荒廃に任される状態となった。
民族浄化 その過程で民族浄化といわれる他民族排除が組織的に行われ、セルビア人勢力に対する国際的批判が強まった。そのような国際世論を背景としたアメリカのクリントン政権がNATO軍を主導して積極的に武力介入、1995年にセルビア人勢力の軍事拠点を空爆、セルビア人勢力は追いつめられて、同年のデイトン合意で和平が成立した。

デイトン和平

 和平内容は、ボスニア=ヘルツェゴヴィナ共和国をムスリム人・クロアティア人勢力からなる「ボスニア=ヘルツェゴヴィナ連邦」とセルビア人勢力からなる「セルビア人共和国」という二国家(エンティティ Entity )からなる「単一の国家(State)」とするというもので、領土分配は前者が51%、後者が49%とする、というものであった。平和維持はこれまでの国連軍にかわり、米・英・仏などNATO軍を中心とする多国籍の平和実施部隊(IFOR)6万人が展開することとなった。なおこの時から、ムスリム人は正式に「ボスニア人」として扱われることとなった。共和国政府と同時に二つの政府が存在するという特異な形態をしている。

現在の状況

ボスニア・ヘルツェゴヴィナ国旗  96年には単一国家として初めての総選挙を実施し、新政府のもとで実際の領土分配の線引きも行われ、複雑な線でに分割・住み分けることとなった。その後も軍の統合、難民の帰還、国土のインフラの復興、経済再建など困難な課題に取り組んでいる。民族的な対立感情が無くなったわけではなく、今後も深刻な問題に発展する要素が多いが、現在は共通の国家目標としてEU加盟に取り組んでおり、その条件として民族対立の克服と安定した政治経済状況が絶対条件として必要なため、対立は封じ込められている形となっている。
 面積約5万平方km、人口384万、首都サライェヴォ、国家元首は3主要民族を代表する3名が8ヶ月交替で大統領評議会議長を務める。

ボスニアを知るには

アンドリッチのノーベル賞受賞 1961年のノーベル文学賞はユーゴスラヴィアのイヴォ・アンドリッチに授与された。アンドリッチは、1892年にボスニアの田舎に生まれ、第一次世界大戦後のユーゴスラヴィア王国の外交官として活躍、フランス、ドイツなどで勤務した後、第二次世界大戦開戦からベオグラードで隠棲しながら、故郷ボスニアの歴史に取材して、『ドリナの橋』、『ボスニア物語』、『サラエボの女』のボスニア三部作を発表した。歴史に翻弄されるボスニアの人々を簡明な語り口で描いた作品は高く評価されている。
クストリッツァの映画 ボスニア出身の映画作家、エミール・クストリッツァは、『パパは出張中!』(1985)と『アンダーグラウンド』(2004)で二度、カンヌ映画祭のパルムドール(最高賞)を獲得した。喜劇とも悲劇ともつかない(まさにそれが現実だったのだろう)ユーゴスラヴィア人の生き様を描き、人々に衝撃を与えた。彼はまたロックバンドのギタリストでもあり、多彩な活躍を続けている。
「オシムの言葉」 日本に関係の深いボスニア人としては、2006年にサッカー日本代表チームの監督として迎えられたイビチャ・オシムがいる。オシムは分裂前の1960年代のユーゴスラヴィア代表チームで活躍、80年代には監督も務めた。1992年のボスニア内戦勃発時にはサライェヴォから離れており、家族とは93年まで会えなかったという苦難も味わっている。日本ではジェフユナイテッド市原の監督として手腕を発揮し、その独自のサッカー理論は「オシムの言葉」として出版され、知られている。期待されて日本代表チームの監督となったが翌年、脳梗塞で突然倒れ辞任した。奇跡的に回復し、ボスニアに戻っても民族ごとに分裂していたサッカー協会の統一などに奔走している。