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巡礼

宗教上の聖地を旅し、霊験に預かろうとする信仰行動。キリスト教徒、イスラーム教徒の間で盛んに行われてきた。

 信者にとっての信仰の証、あるいは信仰上の義務とされ、または救済や霊験(病気その他の人生の苦しみからの脱却)を願って行われる聖地への巡礼は、あらゆる宗教に見られる。キリスト教では特に中世ヨーロッパにおいて、聖地イェルサレムへの巡礼が流行した。イスラーム教ではムハンマドの生地でありカーバ神殿のおかれるメッカと、その墓が生地とされ、ムスリムの義務である五行の一つとして盛んに行われている。これらの巡礼のルートには宿駅が発達し、交易が行われ、また文化の交流をもたらすものでもあった。日本では、伊勢参りとか、四国八十八箇所めぐりなどが行われており、江戸時代には庶民が旅行する唯一の機会として、レクリエーションの意味ももっていた。

キリスト教の聖地巡礼の流行

 中世ヨーロッパでキリスト教信者の民衆が、イェルサレムなどの聖地を訪ねる旅にでることが盛んに行われた。それは聖遺物(イエスの遺物)を得ることや、新しい土地に移住して生活の基盤としようという現実的な欲求と結びついていた。聖地イェルサレムはすでにイスラームの支配下に入っていたが、はじめイスラーム教徒は異教徒であるキリスト教徒の巡礼を容認していたので、自由に巡礼できたが、セルジューク朝が進出しイェルサレムがその支配下にはいると、自由な巡礼が阻害されるようになり、十字軍運動の要因となった(最近の教科書では、セルジューク朝による巡礼の妨害の事実はない、とされている)。また巡礼のルートには治安の維持と現地民のキリスト教化を理由に宗教騎士団が結成された。11~12世紀からは、イェルサレムだけではなく、ローマ教皇のいるローマ、聖ヤコブ(十二使徒の一人)の墓があると信じられたスペイン西端のサンチャゴ=デ=コンポステラの三箇所が三大巡礼地として多くの巡礼が往復した。

Episode 聖遺物を求めて

 イエスが生まれて1000年以上経った時代のヨーロッパの人々は、巡礼や十字軍に参加し、イエスの生きた聖地イェルサレムに巡礼してその証に触れ、イエスの遺物を持ち帰ることが願いであった。十字軍時代にはそのような「聖遺物」と称されるものが多数ヨーロッパにもたらされた。イエスが架けられた十字架の断片(現存するものを合計すると約1000万立方センチになる)、イエスの衣(聖衣)、汗を拭いた手ぬぐい、はてはイエスを刺した槍……などが聖遺物とされた。コンスタンティノープルの商人の中にはにせものの聖遺物をつくり、巡礼や十字軍兵士に高く売りつけるものもいたという。<鯖田豊之『世界の歴史9 ヨーロッパ中世』河出書房新社などによる>
 なお、巡礼にはイェルサレムだけでなく、ローマや、スペインのサンチャゴ=デ=コンポステラ(9世紀に奇跡的に十二使徒の一人ヤコブの遺骨が発見されたとされ、聖地となった)が目的地とされ、それらに向かう道路が整備され、途中の都市には立派なロマネスク建築の教会や修道院が次々と建てられた。<同上>

イェルサレムへの巡礼

(引用)15世紀末の全般、そして16世紀の初頭になってすら、聖地巡礼の旅は総てのキリスト教国で人気が続いており、この種の旅行はほんの僅かな地理学上の成果しかもたらさなかったとは言え、巡礼者達は無辺の知的視野を持ち帰ってきたのであって、それがルネッサンス期の探検に対する一般的関心となって結実したことは疑いを容れない。聖地巡礼というものは当時全く規格化されていた。つまり巡礼専用船に乗ってヴェネツィアから出帆する巡礼者はあちこちのギリシアの島々に寄港した後、ヤッファで下船する。そこからイェルサレム街道を辿り、死海その他の聖書由縁の地を訪れ、それから南に向かってシナイ砂漠を横断して聖カタリナ修道院に赴く。それ以後は多分カイロに行き、ナイル河をアレクサンドリアまで下り、そこから船に乗ってヴェネツィアに還ってくるのだ。・・・しかしながら16世紀も20年ほど経過すると、聖地巡礼の人気は急速に凋落してゆく。1517年には、それまで聖地を支配して来た寛容なエジプトのマムルーク王朝が怒濤のごとく押し寄せるオスマン・トルコ軍の前に倒れ、パレスチナは抑圧的なトルコの支配下に入ってしまった。聖ヨハネ騎士団の根拠地であり、長い間キリスト教世界の東の前哨基地であったロードス島は、1522年シュレイマン大帝によって奪取された。ヨーロッパ内部自体でも間もなく宗教改革が続いて起こり、諸々の事件の重なりは中東への巡礼旅行を消滅に導くのである。<ペンローズ『大航海時代』荒尾克己訳 筑摩書房 p.40-41>

イスラーム教の巡礼

 イスラーム教の信者が行うべき五行の一つとされる巡礼は、ヒジュラ暦第12月に行われる、メッカカーバ神殿へのお参りとメディナのムハンマドの墓へお参りすることで、少なくとも一生に一度は義務とされる。またイェルサレムは、ムハンマドがこの地から昇天したという伝承によって、イスラーム教徒にとっても聖地とされている。イスラーム教のシーア派では、初代イマームのアリーの子のフサインが680年に戦死したカルバラーの戦いの地が生地とされている。なお、10世紀以降にイスラーム教神秘主義(スーフィズム)では、清貧を貫いたスーフィー(修行者)が崇められ、その墓が生地とされて、巡礼の対象となっている。 → イスラーム教の巡礼については、<坂本勉『イスラーム巡礼』2000 岩波新書 参照>

出題

2008年 早稲田大(文) 第3問 次の文章の空欄に入る語句を記しなさい。(一部 改)
 古代から現代に至るまで、聖なる土地を訪れる巡礼という行為は、多くの人々をとらえてきた。キリスト教下の中世ヨーロッパでもっとも人気のあった巡礼地、スペインのサンチャゴ=デ=コンポステラは、イエスの弟子( a )の遺骸(聖遺物)が安置される場所と信じられた。イスラーム教徒にとっては、始祖ムハンマドの生誕地とされる( b )と、墓のある( c )が二大巡礼地とされた。ユダヤ教の預言者( d )が神の声を聞き、十戒を授かったとされる( e )は、ユダヤ教徒に限らず、キリスト教徒、イスラーム教徒の巡礼も集めた。

解答

解説

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ノートの参照
第6章3節 ア.十字軍とその影響
書籍案内

鯖田豊之
『世界の歴史9
ヨーロッパ中世』
河出書房新社
ボイス・ペンローズ/荒尾克己訳『大航海時代』
ボイス・ペンローズ
/荒尾克己訳
『大航海時代』
1985 筑摩書房

坂本勉
『イスラーム巡礼』
2000 岩波新書