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シーア派

イスラーム教徒の少数派。4代カリフ・アリーの子孫のみを正統と認める。多数派のスンナ派に対立する少数派であるが、イランなどでは多数を占め、現在も宗派対立が問題となることが多い。

 イスラーム教の教団は、創始者ムハンマドの時代から正統カリフ時代までは一つにまとまっていたが、第4代カリフアリーの死後に分裂し、主流派で多数を占めるスンナ派と、少数派であるシーア派に分裂した。
 シーア派は、ムハンマドの従兄弟であり、女婿でもあった第4代カリフアリーとその子孫だけをムハンマドの後継者、ウンマ(信者の共同体)の指導者(イマーム)として認め、忠誠を誓う人々のことであり、「アリーを支持する人びと(シーア=アリー)」という言葉からシーア派と言われるようになった。なお、スンナ(スンニ)とは、ムスリム共同体の規範となるムハンマドの言行などの慣行を意味し、教団が選出したカリフを正統と考える人びとを言う。スンナ派はアリーを含む正統カリフ4代とウマイヤ朝のカリフを認め、イマームという語はカリフをふくむ指導者一般を指す語として用いている。 → イランのシーア派(現代のシーア派)

分裂の要因

 分裂の直接的な要因は、カリフの地位を巡る意見の相違であり、シーア派はムハンマドの血をひくことがムスリムの指導者(イマーム)の絶対条件であると考え、男子のいなかったムハンマドの後継者はその従兄弟であり、娘ファーティマの夫でもあったアリーとその子孫しかいないと主張した。その考えで言えば、アブー=バクル以下のカリフは信徒から選ばれたけれどもムハンマドの血統ではないので認められないことになる。
 アリーのみを後継者とすべきであると主張する一派はムハンマドの死と共に生まれていたが、一つの政治的集団となったのは、アリーがカリフとなった後に不慮の死を遂げ、対立していたウマイヤ家のムアーウィヤがカリフとなり、しかもその地位が世襲されることになってからである。

カルバラーの戦い

 シーア派はムアーウイヤ以降のウマイヤ朝カリフを認めなかったため弾圧され、680年にアリーの息子フサインがウマイヤ朝に反旗を翻してカルバラーの戦い(現在のイラク南部)で戦ったが敗北した。以後は少数派としてイラク地方のクーファなどで存続していったシーア派は、カルバラーでのフサインの戦死を「殉教」ととらえ、その地を聖地の一つとし。その日を「殉教の日(アシューラー)」という苦難を偲ぶ記念日としている。

シーア派の教義

 シーア派(その分派としてのイマーム派)の主張は、教義や儀礼についてはスンナ派とほとんど相違はなく、最も異なるのは、「イマーム」という考えである。イマームとは、神と人を結びつける指導者であり、それはムハンマドが指名した後継者である(と彼らが信じる)アリーとその子孫のみがなれると考え、人間が選ぶカリフに従うのではなくイマームに従うべきであるという主張である。また彼らは、人間の行いは神の正義に反して自由意志で行われることがあるから、神の正義に基づいて体制が誤ったときはそれを批判することが出来ると考え、反体制的となる傾向が強いが、スンナ派は予定説にたってすべてを神の行いと理解して体制を批判することはない、という違いがある。
「シーア派」の意味 シーア派とは“シーア=アリ”からきた言葉で「アリー党」を意味し、これがシーア派のはじまりである。アリーと対立したムアーウィヤの支持者は同様に“シーア=ムアーウィヤ”と呼ばれていた。結局ムアーウィヤがカリフとなったので「ムアーウィヤ党」とは呼び方はきえていったため、シーア=アリだけが残った。つまりシーアとは「党」を意味するので、シーア派という言い方は「党」派というへんな意味になるのだが、現在ではその言い方が定着してしまった。<東長靖『イスラームのとらえ方』1996 世界史リブレット15 山川出版社 p.65>

シーア派の分裂

 シーア派はアリーの男系子孫のみをイマームとしていたが、その家系が分かれるに伴って分派が生じた。アリーから12代続いたイマームを認める主流派は十二イマーム派(穏健派。単にイマーム派ともいう。現在イランに多い)といわれるが、途中でザイド派(北イエメンに残る)やイスマーイール派ファーティマ朝を建て、インド、イランなどに残る)などが形成された。イスマーイール派はさらに分裂し、ドゥルーズ派(レバノンに多い)やアラウィー派(シリアに多い)などの少数派が分派している。

アッバース朝とシーア派

 750年にウマイヤ朝が倒れ、アッバース朝が成立した。アッバース家はウマイヤ朝を倒す際には非アラブ系ムスリムと、シーア派を味方に付けたが、権力掌握後はアラブ人を中心とするスンナ派政権に変容し、シーア派に対する厳しい弾圧が続いた。そのもとで第6代シーア派イマームとなったジャアファル=サーディクは、シーア派の存続を脅かすような危機に直面した場合は、信仰を隠しても良いとする「信仰隠蔽(タキーア)」の教義を説いた。765年に彼が毒殺されると、イマームの後継者を巡って対立が生じ、イスマーイール派が分裂した。

「隠れイマーム」

 874年に第11代イマーム・ハッサン=アスカリーが亡くなったとき、彼には公表された息子がなかったので信徒は誰をイマームにすべきか、という問題に直面した。
(引用)彼に後継者となるべき息子がいたのか、いなかったのか知らされていなかった信徒は、第11代イマームの叔父にあたる人物に、葬儀を主催するよう依頼した。ところが葬儀の礼拝がはじまると、突如一人の少年が現れ、葬儀の礼拝は、叔父ではなく息子である自分が行うのが相応しいと言い放ち、礼拝を行った。人びとはこの少年を第12代イマームだと信じたが、礼拝の終了と同時に姿を消し二度と現れることはなかった。
 第12代イマームの行方をめぐってさまざまな憶測が流れたが、結局第12代イマームは、信徒と直接に触れあうことができない「お隠れ」(ガイバ)状態に入ったという解釈が受け入れられた。こうした解釈が受容されたのは、第10代イマームも第11代イマームもアッバース朝の監視を避けるために信徒の前に姿を現すことはなく、代理の者を介して信徒と交流していたからである。第11代イマームが、迫害を恐れた息子の存在を明かさなかったとしても信徒にとって不思議ではなかったであろう。<桜井啓子『シーア派』2006 中公新書 p.29-30>
 第12代イマームが「隠れイマーム」となってから、約70年間は代理人が続いたが、4人目の代理人が後継者を指名せず他界したため、イマームと信徒の間の交信は完全に断たれてしまった。この「イマーム不在の時代」にむしろシーア派の信仰は強固になった。 → 十二イマーム派の項を参照

イマームの再臨 マフディーへの希望

 シーア派では「隠れイマーム」となった第12代イマームは、終末直前に救世主(マフディー)として再臨し、人びとをこの世の悪から救済してくれると信じるようになった。
(引用)シーア派に依れば、サーマッラーにある第11代イマームの墓廟の下には洞穴があり、その洞穴の中の一室には扉があり、この扉の向こうの部屋の隅に、第12代イマームが消えた泉があるという。人びとは、この泉に集まり隠れイマームの再臨を祈る。<桜井啓子『シーア派』2006 中公新書 p.31>

ウラマーの台頭

 イスラーム教ではムハンマドの言行(スンナ)についての伝承(ハディース)を収集し、イスラームの規範を導き出そうとする学者が現れ、彼らはウラマーといわれるようになった。スンナ派においてもウラマーはその学識によって宗教的権威を持つようになった。シーア派にもウラマーが登場したが、シーア派ではムハンマドだけではなく、12人のイマームの言行も重視された。「隠れイマーム」の時代となると、シーア派ではイマームの持っていた金曜礼拝の指導や宗教税の徴収などをウラマーが代行するようになった。そのため、シーア派においては、ウラマーが宗教指導者としての強い指導力を有するようになった。

エジプトのシーア派国家

 第4代カリフ、アリーの子孫のイドリースがメディナで反乱を起こして失敗し、モロッコに逃れてベルベル人の支持を受けて789年に建国したイドリース朝がその最初である。ただ、この王朝はまだシーア派王朝としての独自性は持っておらず、974年に後ウマイヤ朝に攻められて滅亡した。本格的なシーア派国家の最初は、イスマーイール派の一分派が909年にチュニジアに成立させたファーティマ朝である。ファーティマ朝はエジプトを征服し、969年カイロを建設してアッバース朝に対抗するカリフを称した。ファーティマ朝は12世紀までエジプトを支配したが、1171年アイユーブ朝サラーフ=アッディーンに滅ぼされた。アイユーブ朝はスンナ派だったので、エジプトのシーア派時代は終わった。

イランのシーア派

16世紀のサファヴィー朝以来、シーア派の十二イマーム派を国教とされ、定着した。1921年以降イランを支配したパフレヴィー朝は外国の石油資本と結びついて強引な西洋化を進めたため民衆の反発を強め、1979年にイラン革命が起こり、アメリカとの対決色を強めている。

ブワイフ朝

 イランではシーア派の十二イマーム派を信奉するブワイフ朝が登場し、946年にアッバース朝の弱体化に乗じバグダードに軍事政権を樹立し、スンナ派のアッバース朝カリフから大アミールの称号を与えられた。イスラーム世界の中心部での最初のシーア派政権であったが、11世紀の中頃、中央アジアから西アジアに進出したスンナ派のセルジューク朝に滅ぼされた。

サファヴィー朝

 現在のシーア派はイスラーム世界全体では少数派(全イスラーム教徒の約10%)で、イランやイラク南部に多い。特にイランのシーア派は、1501年サファヴィー朝イスマーイール1世がシーア派の十二イマーム派を国教としてから現在まで続いている。
 サファヴィー朝はイスラーム神秘主義の中から生まれた神秘主義教団の一つであったが、小アジアのトルコ系遊牧民への布教の過程で、教主を救世主として熱狂的に崇拝し、スンナ派を徹底的に憎悪する騎兵部隊(キジルバシュ)を軍事力とするようになった。「隠れイマーム」の再臨を信じる十二イマーム派の信仰と結びつけて、教主をイマームの代理人と称し、イラン人の人心をつかんでいった。サファヴィー朝の政権はイラン統治の手段としてシーア派信仰を強めたため、神秘主義教団としての性格は次第に薄れていった。
 18世紀のイランはサファヴィー朝が衰退し、政治的混乱が続いた。1736年にトルコ系アフシャール朝を建てたナーディル=シャーは、サファヴィー朝との差別化を図りスンナ派を国教としたが、短命に終わったため、イランのスンナ派化は失敗した。

近代のイラン

 19世紀のイランでは一時トルコ系のカージャール朝に支配されたが、反発するイラン人のシーア派からバーブ教という新宗教がおこり、1848年バーブ教徒の反乱が起きたが、彼らは異端として弾圧された。19世紀末から20世紀にかけて、西欧帝国主義の侵略が露骨になると、イランでも民族運動が起こってきた。シーア派のウラマーは、1891年から始まった反帝国主義運動であるタバコ=ボイコット運動(1891-92)でも指導的な役割を担った。また、1905年に始まったイラン立憲革命でも、立憲制の樹立に加わり、1907年にイラン最初の憲法を制定させた。しかし、ウラマーの中には、西欧的な立憲主義の原理とイスラーム法学の原理は異なるとして、憲法制定に反対する者もあらわれ、ウラマー間に亀裂が生じることとなった。

現代のシーア派とイラン革命

 第一次世界大戦前後にイランはロシアとイギリスの侵略を受けてカージャール朝が衰退した後、1921年にクーデターで実権を握ったパフレヴィー朝はシーア派国家を再興した。しかし、パフレヴィー朝は第二次世界大戦後に白色革命という近代化路線をとってアメリカに接近し、ウラマーなどのシーア派宗教勢力を排除したため、イラン民衆の反発が強まった。
 イラン国内のシーア派勢力は国王の政策を西欧=アメリカへの従属、イスラームの教えからの離反と捉え、反発するようになったが、その指導者ホメイニ師は1964年に国外追放となった。1979年、パフレヴィー朝打倒を叫ぶ民衆暴動が起きると、亡命先から帰国したホメイニ師は絶大な支持を受けて政権を掌握、イラン革命を指導することとなった。その結果、イランに現在のシーア派の最大の国家イラン=イスラーム共和国が成立した。

イラクのシーア派

 18~19世紀、イランの政治的混乱によって、シーア派ウラマーの多くは現在のイラクにあるシーア派歴代イマームの墓廟のあるナジャフ、カルバラー、カーズィマイン、サーマッラーの四都市に追放されたり移住していったので、イラクがシーア派の拠点となっていった。当時のイラクはスンナ派のオスマン帝国領であったが、その辺境であったので権力の空白地帯になっており、その地でシーア派ウラマー(特に法解釈を行うことのできるイスラーム法学者をムジュタヒドといった)はシーア派信仰の体系化に努め、マルジャア・アッ・タクリード(模擬の源泉)を頂点とした位階制が形成されていった。墓廟四都市の中でもナジャフ(初代イマームのアリーの墓廟があるところ)が最大拠点とされ、シーア派学問の中心地として現在もその地位を維持している。
 またイラク南部には、18世紀にサウジアラビアではじまったイスラーム原理運動であるワッハーブ派によって追われてきてシーア派に部族ごと改宗したベドウインも多い。<桜井啓子『シーア派』2006 中公新書 p.79-88> イラクにはスンナ派とシーア派が併存していたが、スンナ派のサダム=フセイン政権の下ではシーア派が弾圧され、それが一因となってイラン=イラク戦争となった。湾岸戦争後もシーア派は弾圧され続けたが、イラク戦争でフセイン政権が崩壊した現在では、スンナ派が排除され、イラク新政権はシーア派が優勢になっており、逆にスンナ派の不満が高まっている。

主要国のシーア派比率

 総人口に占めるシーア派率  イラン=88.3%  イラク=57.1%  バーレーン=54.4%  レバノン=29.8%  クウェート=18.8%  パキスタン=14.5%  アフガニスタン=5.9%  トルコ=3.3%  サウディアラビア=2.3%  インド=1.8%  シリア=0.6%  アゼルバイジャン=61.0%  タジキスタン=5.0%  <桜井啓子『シーア派』2006 中公新書 p.6>

参考 シーア派に関する誤解

 現代の中東情勢の中で、シーア派の存在は重要になっているので、世界史学習でも正しい理解が必要である。ところが一般に流布されているシーア派の理解には、誤っているものが見受けられる。ここではシーア派についての誤解として代表的なものを挙げておく。
  • シーア派をイランのイスラームだとする見方は誤り。現在のイラン人の大多数がシーア派に属するのは事実だが、シーア派信徒のすべてがイラン人だというわけではない。シーア派はアラブ人の中から興ったのであり、現在でもイラクやレバノンでは国民の約半数がシーア派である。イランがシーア派を国教とするのは16世紀のサファヴィー朝の時代からであり、それ以前のイラン人は基本的にはスンナ派であった。
  • シーア派をイスラームの異端であるとするのは誤り。正統と異端の区別はキリスト教では公会議で決定され、異端とされればキリスト教徒とは認められない。イスラーム教には公会議にあたるものはなく、正統と異端という区別もない。シーア派を異端とするのはキリスト教からの類推に過ぎず誤っている。スンナ派はシーア派をイスラーム教と認めているし、イランもイスラーム諸国会議機構に加わっている。
  • シーア派をイスラームの過激派とするのは誤り。少数派だから過激派に違いないと即断は出来ない。いわゆる過激派組織はシーア派の中にもスンナ派の中にも存在する。シーア派そのものが過激派なのではない。
<東長靖『イスラームのとらえ方』1996 世界史リブレット15 山川出版社 p.66>

現代のシーア派系の過激派

 20世紀のイスラーム過激派は、イスラーム原理主義アラブ民族主義(この二つの潮流もまったく違うが)などが複雑に影響し合って登場したものであり、それはスンナ派・シーア派を越えた現象である。例えば今世紀に入って台頭したイスラム国(IS)はカリフ制の復活などの主張からも判るようにスンナ派のイスラーム教から興った動きである。またシーア派自体が過激派なのではなく、例えばイラン革命を推進したのは十二イマーム派、またイランの支援を受けているレバノンの武装組織ヒズボラ、同じくレバノンのドゥルーズ派、シリアのアサド政権を支えるアラウィー派などは、いずれもシーア派全体の支援を受けているわけではなく、さらに少数の分派に過ぎない(もちろん、シーア派という世界組織があるわけでもない)。

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書籍案内

桜井啓子
『シーア派』
2006 中公新書

M.S.ゴードン
『イスラム教』
1994 青土社

東長靖
『イスラームのとらえ方』
世界史リブレット15
1996 山川出版社

水上遼
『語り合うスンア派とシーア派』
《アジアを学ぼう》別巻16
2019 風響社