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朝貢/朝貢貿易

中国の王朝に対する周辺諸国の貢物の献上という形態を採る一種の貿易。

 高度な文明を誇り、強大な国力を持った国家に対し、その文明の影響を受けながら国家形成を進めた周辺の諸民族の統治者が、その統治権を認めてもらうために、使節を送り、財物や奴隷などを貢ぎ物として差し出すこと。その見返りとして、王号や官職を授与される(冊封体制)。中国の各王朝に対する朝鮮や日本などの東アジア諸国、ベトナムなどの東南アジア諸国、中央アジアの西域諸国などが行ったのがそのような朝貢である。中国の王朝でも力関係が逆転すれば、匈奴帝国や遼、金などの北方民族の遊牧国家に朝貢したこともある。

朝貢貿易から民間貿易へ

 唐の時代は唐を中心とした国際秩序が出来上がり、貿易も朝貢の形態を取っていたが、9世紀後半から唐の衰退が明らかとなり、894年に日本の遣唐使も停止される。五代十国の争乱が始まると、国際秩序にも変化が生じ、中国の周辺民族の活動が活発となっていった。中国は一応のところ宋が統一を再現したが、この時代は宋の国際的な求心力は弱まり、北方民族や東アジアの高麗、日本などがそれぞれ独自のあゆみを強めていった。宋の時代は朝貢という形態に代わって、民間レベルでの交易が活発となり、宋銭は国際通貨としての役割も担った。

朝貢貿易の意味

 中国を中心とした朝貢関係は、「中華」(世界の中心で栄えている国の意味)たる中国王朝が、周辺の「蛮夷」に対して恩恵を施す、という理念によって成り立っている国家間の関係であるとともに、貿易の一形態でもあり、朝貢品と下賜品の交換という経済行為でもあった。

元の貿易活動

 北方民族の征服王朝である遼、金、元では、従来の中華意識による朝貢貿易よりも、自由な交易が行われ、内陸のルートや海上ルートでのイタリア商人やムスリム商人の活動に見られるように、世界的な規模での交易が展開された時代であった。

明の朝貢貿易

 次の明の成立によって、東アジアの交易は再び朝貢貿易という形態を採ることとなった。洪武帝は皇帝の専制化とともに、外国貿易によって沿岸地方の都市が発展し、皇帝の統制に服さなくなることを恐れ、倭寇を防止して海禁(海外との自由な取引や渡航を認めない)政策を採る一方、権威主義的な朝貢貿易を復活させ、周辺諸国に勘合符を与え、それを所持する船のみに交易を認める勘合貿易を始めた。永楽帝の時には鄭和艦隊の派遣にみられるような朝貢貿易の拡大を図り、湯治中国に朝貢する国は三十余国に及んだといい、朝貢貿易の全盛期となった。日本の室町幕府との間の日明貿易も1404年に始まり、それによって倭寇(前期倭寇)の活動は抑えられた。しかし、永楽帝の死後、明は朝貢貿易の縮小政策に転じた。明の後半からは倭寇という私貿易の増大に悩み、勘合貿易などの貿易統制か、あるいは海禁策を取らざるをえなくなる。続く清でも貿易統制の必要から基本的には海禁政策を採り、貿易はあくまで朝貢の形式をとることを原則とした。

清の朝貢貿易とその消滅

 次の清朝も対外貿易の原則は朝貢貿易であった。清朝になると、周辺のアジア諸国だけでなく、ヨーロッパ諸国との関係が始まったが、その中でロシアとは例外的に1689年のネルチンスク条約で対等な貿易を認めたが、海港での貿易に対しては1757年に乾隆帝の時に朝貢貿易を強化して海禁政策がとられ、貿易港は広州一つに限定された。
 この18世紀後半は、イギリスの産業革命が進行し、海外市場の拡大と原料をもとめて自由貿易主義が強まってきた。イギリスの自由貿易の要求に対しては、1793年のマカートニー使節団を初めとする交渉を朝貢貿易の原則から拒否することとなる。しかし、アヘンの密貿易の拡大から1840年にアヘン戦争となり、その敗北によってイギリスと締結した南京条約によって公行の廃止や広州以外の5港の開港を約束し、長い朝貢貿易の形態は消滅する。