印刷 | 通常画面に戻る |

黒海

バルカン半島、ロシア、小アジアに囲まれた海。ギリシア人の植民市が造られ、後にはイスラーム圏となる。

 バルカン半島の東、小アジアの北、ウクライナロシアの南に広がる海。北岸に突きだした三角形の半島がクリミア半島。クリミア半島で黒海と区切られているのがアゾフ海。黒海はボスフォラス・ダーダネルス両海峡を通って地中海方面につながる。
黒海沿岸は、広大で肥沃な平原が広がり、豊かな穀物(小麦)の産地として、古代では地中海方面の穀倉地帯として重要視された。
 特に近代では、ロシアの南下政策が積極化すると、地中海方面へのロシアの進出を警戒するイギリスやフランスとの間で黒海の航行の自由、ボスフォラス・ダーダネルス両海峡の通行の自由などが国際問題化する。 → 黒海中立化


黒海の中立化

 18世紀以降、ロシアが台頭すると、黒海から地中海へのルートに進出しようとする「南下政策」をとるようになり、オスマン帝国と鋭く対立し、何度かの戦争を続けることになる。また、ロシアの地中海進出を危惧する西欧諸国との間にも、黒海の扱いを巡る対立が生じ、黒海の中立化が問題となっていく。  黒海の中立化とは、黒海を特定の国が占有するのではなく、航海として扱うと言うことであり、具体的には、黒海での軍艦の航行禁止と沿岸での軍港建設禁止ということである。また、黒海の出入り口であるボスフォラス・ダーダネルス両海峡の通行権も問題となる。
 ロシアは1833年、オスマン帝国とウンキャル=スケレッシ条約を締結して、ロシア軍艦の航行を認めさせ、他国の軍艦の航行を禁止した。しかし、1841年のロンドン会議で成立した5国海峡協定によってウンキャル=スケレッシ条約を廃棄、各国軍艦の航行は禁止され、海峡は封鎖された。さらに1856年、クリミア戦争後のパリ条約で、黒海中立化、海峡封鎖の原則が確認された。さらに、露土戦争後のベルリン条約でも、海峡のオスマン帝国艦船以外の公行禁止が確認されたため、ロシアの黒海艦隊は、後の日露戦争でも出動できなかった。なお、日露戦争の最中、ロシアの黒海艦隊の戦艦ポチョムキンの反乱が起こっている。