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アーヘンの和約

1748年、オーストリア継承戦争の講和条約。マリア=テレジアの家督相続は認められたがシュレジェンなどを放棄した。

 1748年、オーストリア継承戦争の講和条約。フランス・スペインとオーストリアなどの間でむすばれた。オーストリア軍がフランス軍に敗れたたため、オーストリアはマリア=テレジアのハプスブルク家の家督継承を諸外国に認めさせた代わりに、プロイセン王国が占領していたシュレジェンを割譲した。要点は次の3点。
  • 各国はオーストリアのプラグマティッシェ=ザンクチオンを承認する(つまりマリア=テレジアの家督相続を認める)。
  • オーストリアはプロイセンにシュレジェン地方を割譲する。
  • オーストリアはパルマ・ピアチェンツァ(いずれも北イタリアの都市)をスペインに割譲する。
(参考)アーヘンはかつてフランク王国のカール大帝の宮廷がおかれたところで、西欧の中心という位置にある。現在はベルギー・オランダ国境に近いドイツ領となっている。

Episode 〝講和のようにばからしい〟

 18世紀のフランス(ブルボン朝のルイ15世)にとって最大の敵手はイギリスだった。オーストリア継承戦争にもイギリスとの対抗心から参戦したが、その結果たる1748年のアーヘンの講和(和約)は、フランスに何ものももたらさず、〝講和のようにばからしい〟という流行語だけをおのこした。フランスの危機はフランス史を通じて最もみじめな条約と言われたパリ条約(1763年)でさらに決定的なものとなった。<河野健二『フランス革命小史』1959 岩波新書 p.62>
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ノートの参照
9章1節 オ.プロイセンとオーストリア