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シュレジエン

オーストリア帝国の一部であったが、1740年にプロイセンのフリードリヒ2世が侵攻。オーストリア継承戦争の結果プロイセン領となる。現在はポーランドに属する。

 現在のポーランドのオーデル川中・上流地域(シレジア)(ポーランド後ではシロンスク)。中心都市は現在のヴロツワフ(ドイツ表記はブレスラウ)。10世紀以降、ポーランド人がこの地に入ったが、まもなくドイツ人の東方植民も始まる。1241年、モンゴルの遠征軍をポーランド・ドイツ連合軍が戦ったワールシュタットの戦い(リーグニッツ)もこの地にあり、シュレジェン公ハインリッヒ(ヘンリック)2世が指揮した。14世紀以来ボヘミア王国領となり、1526年にハプスブルク家の所領となった。この地は鉄・石炭などの地下資源が豊かで、18世紀には機業・鉱業などの鉱工業がさかんになり、オーストリア領内でも最も工業が発達している地域であり、人口も100万に達していた。

プロイセンによる奪取

 プロイセンのフリードリヒ2世は、自己の貧弱な国土に、この地を加えることを熱望していたが、1740年にハプスブルク家の家督を女性のマリア=テレジアの相続を認める代償としてこの地の併合を要求し、オーストリア継承戦争がおこった。この戦争はシュレジェン戦争(第1次)ともいう。1742年にフリードリヒ2世はこの地の割譲を認めさせたが、その後反撃され、さらにフランスの支援を受けて1744~45年再びオーストリアと戦い(第2次シュレジェン戦争)、占領を続け、1748年のアーヘンの和約でオーストリアに割譲を認めさせた。
 その後、オーストリアのマリア=テレジアはシュレジェン奪還を目ざし、フランスと結ぶという外交革命を成功させて、再びプロイセンと七年戦争(第3次シュレジェン戦争)を戦ったが、奪還はできず、1763年のフベルトゥスブルク条約でシュレジェンの領有をオーストリアに認めさせた。

その後のシュレジェン

 その後、プロイセン王国はドイツ統一の主導権を握り、1870年にドイツ帝国が成立するとそれに組み込まれた。それによってドイツ人の移住が続いき、スラブ系住民との対立も生じた。
 1919年、第1次世界大戦でドイツ帝国が敗れて解体したので、ヴェルサイユ条約によってシュレジェンはポーランド、チェコに分割されるが、第2次世界大戦でナチス=ドイツが再併合、大戦後に全シュレジェンがポーランド領となった。その結果、ドイツ系住民は撤退してポーランド系住民がその跡地に入り、現在にいたっている。
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ノートの参照
9章1節 オ.プロイセンとオーストリア