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フランス東インド会社

1604年、アンリ4世によって創設されたが活動を停止し、1664年、ルイ14世時代にコルベールによって再建された。コロマンデル地方のポンディシェリとベンガル地方のシャンデルナゴルを拠点にイギリスと対抗したが、1757年のプラッシーの戦いで敗れ、インド経営から後退、1796年に解散した。

 1520年代にルーアンの商人が仕立てたフランス船がマラバール海岸に到着したのが、フランスのインド進出の最初であったが、その後はオランダやイギリスに後れをとり、順調ではなかった。フランスの東インド会社はイギリス、オランダに遅れて、1604年にアンリ4世の勅許状によって設立されたが、実際にインドへとの貿易は行われず、会社は停止状態となった。その間、フランスのアジア交易の拠点とされたのはマダガスカル島であり、この島を中心としてインド洋に面したペルシアやインド、東南アジアと交易を行った。
 実際に活動が始まるのは、1664年に財務長官コルベールルイ14世の勅許状を得て再建してからである。コルベールは重商主義政策を推し進め、同年にはアメリカ大陸との交易にあたる西インド会社も設立した。

フランスのインド進出

 フランスの本格的なインド進出は、1667年、フランソワ=カロン(この人はオランダ人で平戸のオランダ商館最後の館長だった)がインド西北部のスラット、ベンガルなどに商館を建設し、キャラコ(木綿)・胡椒などを輸入してからである。1674年にインドの東海岸(コロマンデル地方)のポンディシェリの土地を購入して要塞を築き、インドにおける中心拠点とした。また、ベンガル地方にはシャンデルナゴル、コロマンデル海岸のマスリパタムなどにも商館を設け、さらにインド洋上のモーリシャス諸島を領有した。
 17~18世紀は、それまでポルトガルがにぎっていたインド交易の主導権を、オランダ・イギリス・フランスが激しく追い上げ、また抗争した時代だった。その中で次第にイギリスとフランスの優位が明らかとなり、コロマンデル地方ではイギリスのマドラスに対してポンディシェリが、ベンガルにおいてはイギリスのカルカッタに対してシャンデルナゴルが、それぞれ対抗拠点として競争した。 なお、ポンディシェリ、シャンデルナゴルは、その後もフランス領として続いたが、1954年にともにインドに返還された。

英仏の抗争

 18世紀半ばにはフランスのインド総督デュプレクスがポンディシェリを拠点に第1次と第2次のカーナティック戦争では、イギリスを圧倒する働きを見せたが、本国政府がデュプレクスの独断専行的な動きを非難して召喚すると、第3次、1758~61年の第3次カーナティック戦争ではクライヴに指揮されたイギリス東インド軍に敗れ、並行して戦われたベンガル地方での1757年のプラッシーの戦いでも、フランスはベンガル太守と結んだがイギリス東インド会社軍に敗れ、インドの主導権を失った。
 1763年のパリ条約で、フランスはポンディシェリとシャンデルナゴルの領有は回復したが、その他の権益はすべて放棄し、インドにおけるイギリスの覇権が確立した。その後も後発組であったフランス東インド会社はオランダ・イギリスの妨害も激しく、国内の商業資本の成長も十分でなかく弱小株主しか存在しなかったため資本が集まらずに経営が悪化し、1796年に解散した。<浅田実『東インド会社』講談社現代新書 などによる>
 → 8章 4節 東インド会社  オランダ東ンド会社  イギリス東ンド会社
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ノートの参照
9章1節 ア.重商主義
第13章2節 ア.インドの植民地化
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浅田実『東インド会社』
講談社現代新書