印刷 | 通常画面に戻る |

パナマ(1) パナマの独立/パナマ共和国

北アメリカ大陸と南アメリカ大陸をつなく地峡地帯にあり、1903年、アメリカに支援されてコロンビアから独立した共和国のもとで、パナマ運河が建設された。

 パナマは南北両大陸を結ぶ地峡地代の、最も狭くなった地域にある。地峡地帯は大きくねじれ、パナマのところで東西に横たわる形になっているので、パナマは北で大西洋、南で太平洋に面している。
 1501年にスペイン人が初めてパナマに上陸した。スペインのフェルナンド王がパナマの探検隊を派遣、その中のバルボアが1513年に太平洋に到達した。こうしてパナマ地峡が世界市場に重要な意味を持って登場した。その後、1519年に太平洋側にパナマ市が建設され、スペイン植民地時代はヌエバ=グラナダ副王領に属した。パナマはスペインの南米大陸進出の拠点とされたが、1671年にイギリスの海賊ヘンリー=モーガンによって破壊された。これが古パナマで、現在のパナマは後に建設された都市である。1819年、ヌエバ=グラナダ領は大コロンビアとして独立してパナマもその一部となり、1830年からはコロンビア(厳密にはヌエバ=グラナダ共和国。コロンビアという国号は1886年から)に属することとなった。

Episode 三度独立した国

 パナマは、「三度の独立を経験した国」である。第1回目は1819年に大コロンビアの一部としてスペインから独立、第2回目は1903年にアメリカの支援によるコロンビアから分離独立、第3回目が2000年1月1日である。これは、前年年末でアメリカのパナマ運河地帯に持っていた主権が終わりを告げ、パナマ共和国が実質的な独立を達成した日である。 → パナマ共和国(2)

パナマ運河の構想

 1848年、アメリカ合衆国は大陸の東側に到達し、大陸国家として完成し、19世紀末にはカリブ海域と太平洋海域に帝国主義的進出を活発化した。アメリカ西岸から東岸に至るには、南米大陸南端のホーン岬を回航する必要があった。そのため、アメリカだけでなく、イギリスやフランスもパナマ地峡に運河を建設することを目指すようになった。アメリカはカリフォルニアのゴールド=ラッシュが始まると、まず大西洋と太平洋を結ぶ最短地峡であるパナマに鉄道を建設した。しかし、アメリカは運河建設ルートとしては、当初はニカラグァ湖のあるニカラグァを選び、パナマ地峡に運河建設を計画したのはフランスのレセップスであった。

パナマ共和国の独立

 こうしてレセップスによってパナマ運河の建設が始まったが、それは難工事の連続で財政的に行き詰まって倒産した。このころ急速にアメリカ帝国主義が展開されはじめ、セオドア=ローズヴェルト大統領は運河建設権を獲得しようとしたが、コロンビアはそれを拒否した。そこでアメリカはパナマのコロンビアからの分離独立を画策、1903年11月に独立派が反乱を起こして独立を宣言すると、アメリカは海軍を派遣、反乱鎮圧のために派遣されたコロンビア海軍のパナマ上陸を阻止して独立を成功させた。そのわずか2日後にアメリカ政府は新政府を承認、さらにわずか2日後にアメリカとパナマ政府との運河条約を締結した。 → アメリカの外交政策

パナマ運河の開通

 アメリカが独立承認と引き換えに認めさせたパナマ運河条約は、運河の両岸を5マイル(当初案では5キロであったのが5マイルに書き換えられた)、つまり10マイル(約16キロ)の運河地帯の主権をアメリカに与え、またその期限を当初は99年に限定していたものを無期限とするなど、アメリカにとって大変有利なものであった。これを認めたパナマの初代大統領アマドールは、現在では売国奴として名を残している。こうしてアメリカは1904年に運河工事に着手し、第一次世界大戦の勃発した1914年に完成させた。

実質的なアメリカの属国化

 1904年のパナマ運河条約で、運河地帯とその付属施設の主権をアメリカに属することを認めたことによって、パナマは独立と同時に、実質的にアメリカの属国となった。セオドア=ローズヴェルト政権はさらに、パナマ軍を国家警備隊に縮小してその抵抗力を奪い、さらに同年成立したパナマ憲法では、パナマの国内政治の安定のためにアメリカが軍事介入できる項目を盛り込ませた。
 また、アメリカは運河の利権の完全維持を狙い、パナマの国家経済に介入して中央銀行の設立を許さなかった。そおため、パナマは現在でも通貨を管理する中央銀行が無く、バルボアという通過はコインのみで、紙幣は米ドルがそのまま流通している。<伊藤千尋『反米大陸』2007 集英社新書 p.89>

パナマ(2) パナマ運河の返還/パナマ侵攻

第二次世界大戦後、パナマ運河の返還要求が強まり、トリホス大統領の時の1977年にアメリカが同意した。しかし次のノリエガ大統領はアメリカと対立し1989年に米軍のパナマ侵攻によって排除された。その後、運河返還は約束通り1999年末に実現した。

 パナマは、1903年に独立したものの、パナマ運河条約によって、運河地帯の主権はアメリカに握られ、事実上その属国に近い存在となった。アメリカは、その帝国主義政策の拠点としてパナマ領内での軍隊の移動が自由にできるなどの権利を保有し、実質的支配権を維持していた。
 しかし、パナマ国民の不満は次第に高まり、1925年には最初の反米闘争が起こると、アメリカはそれを鎮圧したものの、30年代にはフランクリン=ローズヴェルト大統領の善隣外交に転じ、パナマ運河条約改正交渉に応じることとなった。その結果、36年にアメリカは運河地帯の本来的主権はパナマに属することを認め、将来の返還への見通しが生まれた。
 第二次世界大戦後、パナマの反米感情は強まり、米軍基地反対闘争がくりかえされ、1946年には運河地帯以外の米軍基地は撤去された。パナマの反米運動が、パナマ運河返還要求に具体化したのは、1956年にエジプトにおいてスエズ運河国有化が実現したことの影響であった。それに対して、アメリカは1959年にキューバ革命によってカリブ海に社会主義政権が出現したことに危機感を強め、パナマ運河の軍事的意義を重視してその支配権の維持を図ったため、事態は緊迫していった。

トリホス大統領

 1968年、パナマで軍事クーデターが発生、トリホス中佐が実権を握った。トリホスは、民族主義に立脚した新政権を樹立、アメリカに対するパナマ運河地帯の全面返還要求を掲げ、積極的な活動を開始した。トリホスはパナマ運河問題を国際問題とすることをねらい、国際連合の舞台で盛んに訴え、75年にはパナマで安保理を開催することに成功した。アメリカでニクソン、フォードと続いた共和党政権から、77年に民主党のカーター政権に交替したことによって転機を迎え、同年新パナマ運河条約(パナマ運河返還条約)が成立、1999年の返還を約束した。こうしてトリホスはパナマの悲願を達成して時の人となり、人気も高まったが、軍内部に反対勢力が生まれ、そのような中、1981年7月、飛行機事故で命を落とした。

ノリエガ大統領

 1981年、トリホス大統領の事故死にともない、軍を抑えていたノリエガ将軍が大統領となった。ノリエガ将軍はアメリカのCIAとのつながりが強く、治安・諜報部門の出身であった。トリホス大統領の事故死も、ノリエガがCIAと結託した暗殺であった可能性が大きい。大統領となったノリエガは、レーガン政権のニカラグア革命への介入に協力し、アメリカとの関係は良好であったが、一方で国内の根強い反米感情に呼応して、キューバのカストロ政権にも接近するなど、アメリカはその動向に神経をとがらせるようになった。

アメリカ軍のパナマ侵攻

 1989年12月、ブッシュ(父)大統領は、パナマ在住のアメリカ人の保護と麻薬撲滅を口実として、アメリカ軍のパナマ侵攻を決行した。短時間にパナマ市を制圧し、ノリエガ大統領を逮捕、アメリカに連行して裁判にかけ、有罪とした。ノリエガは現在もアメリカの刑務所に服役している。

パナマの「第三の独立」

 ノリエガ政権がアメリカの軍事介入によって排除された後、親米派のエンダラ大統領が就任、アメリカ大使の言うことを聞く大統領として、アメリカ従属が続いたが、94年の大統領選挙では落選した。結局アメリカは、冷戦の終結、ソ連の解体などの世界情勢の変化によって、パナマに対する軍事支配を維持することをあきらめ、新パナマ運河条約の取り決め通り、1999年末までにパナマ運河地帯の主権を全面的にパナマに移譲することを認めた。それによって、2000年1月1日、パナマはアメリカの実質支配から完全に自立し、「第三の独立」を達成した。運河地帯からのアメリカ軍も撤退した。
 2004年の大統領選挙では、かつてのパナマ返還運動で国民に人気の高かったトリホス大統領の子どものマルチン=トリホスが当選した。
パナマ国旗 現在のパナマ 国土面積7.5万平方キロ(北海道ぐらい)、人口約386万、首都はパナマ市。住民はスペイン入植者と現地のインディオとの混血など。純粋な先住民はごく少ない。公用語はスペイン語。多のラテンアメリカ諸国と同じく、カトリックが大多数を占める。長い間、パナマ運河地帯の主権をアメリカに奪われ、事実上の従属国であったため、通貨は現在もドルである。また、1989年のアメリカ軍のパナマ侵攻によって国防軍が解散させられてからは、「軍隊のない国家」である。
印 刷
印刷画面へ
書籍案内

伊藤千尋
『反米大陸』
2007 集英社新書