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ロバート=オーウェン

イギリスの初期社会主義者。マンチェスターで工場経営に成功し、ニューラナークで社会改良に取り組む。また工場法改正による労働者保護に尽力。労働組合運動、協同組合運動を指導し、社会主義の先駆者となる。

 ロバート=オーウェン Robert Owen 1771-1858 はウェールズの手工業者の家に生まれ、商店に店員として奉公しながら各地を転々とした。産業革命が進行していたマンチェスターで紡績工場の経営に加わり、さまざまな技術改良を加えながら生産量を増やし、富を得た。しかし若いころから労働者の状態には心を痛めていたので、資本家と労働者が共同で経営する理想的な工場をつくろうと考え、1800年にスコットランドのニューラナークの紡績工場で、実験的な労働条件の改良に取り組んだ。社会改良に取り組みながら経営にあたり、その面でも成功して綿業王とも言われた。

ニューラナークの実験

ニューラナーク

ニューラナーク工場

 オーウェンはマンチェスターで資金を貯え、取引に訪れたスコットランドのグラスゴーで一人の女性に巡り会った。1797年、28歳だった。彼女と恋仲になって結婚を約束、その父親のデール氏がニューラナークにもっている紡績工場を手放したいと思っていると知り、何人かの仲間と出資し合って買収した。近くに滝のあるクライド川の水力を利用し、アークライトの水力紡績機が導入された工場だった。マンチェスターなどで経営に当たるうちに、工場で働く労働者とその家族の貧困、特に子供たちが働かされ、教育も受けられていない状態に心を痛めていたオーウェンは、1800年1月1日、新しい工場と労働者のあり方を実験する社会改良を、このニューラナークで開始した。ニューラナークは紡績工場に附属する小売店や幼稚園などが設けられ、実験的な工場村となっていった。
 労働者は「どこからでも誘いさえすれば手早く掻き集められてきた人びとであって、その大多数が怠惰で・のんだくれで・嘘つきで・誠がなく、しかも偽信心家」であり、「命の洗濯」と称して何週間もぶっ通しに毎日毎日酒に浸って、その期間は全く彼担当の仕事はほっておく」、「盗みなどはごく普通のことで、おびただしく途方もないほどにまで行われ」ていた。このような工場を「統治」するためにはどうすればよいか、オーウェンは次のよう考えた。
(引用)私はこれらの不幸な地位におかれてある人びとをば、彼らが実際にあるがままに、無知な悪い境遇の被造物だと考えなければならぬ、すなわちそれらの人びとは、彼らを囲むようにされてきた悪状態のために、今日あるが如きものにされたのであって、それに対して責任を負うべきものがありとすれば、それはただ社会のみである。かつ、個人個人を苦しめる代わりに、――ある者を獄に投じ、流罪にし、ある者を絞首刑にし、人びとを常に不合理な興奮の状態においておく代わりに、――私はこれらの悪状態を、よき状態に変じなくてはならぬ。かくして、自然の然るべき秩序において、その不変な法則に従って、かの劣悪な状態によって造られた劣悪な性格は、健康な状態によって、つくられるべき優良な性格に置き換えられなければならぬ。そして、これこそ、今や万人の幸福のために、あまねく実地に採用されるべき方法なのだ。<ロバアト・オウエン/五島茂訳『オウエン自叙伝』1857 岩波文庫 1961 p.112>
 貧困や犯罪を、個人の能力や資質のためと斬り捨てるのではなく社会の問題として捉え、しかも法や罰によって矯正するのではなく、社会改良によって良くしていこうという発想が見事に語られている。現代ではあたりまえとされるかもしれないが、その一方で自己責任というワードが流行り、社会保障への風あたりも強くなっている昨今、オーウェンの思想が19世紀初めに生まれていることを確認しておくことには意味がありそうだ。

Episoce 経営者オーウェンの努力

 オーウェンがニューラナークの綿紡績工場を成功させるためには労働者の協力は不可欠だった。労働環境を良くしただけでなく、どのような努力が必要だったかを伝えるエピソードが自叙伝に語られている。
 1807年、ナポレオン戦争が激しかった時、アメリカはフランスと結び、イギリス船を抑留したため綿花輸入がストップした。綿花の価格は急上昇し、イギリスの紡績工場は一気に危機に陥った。多くの工場では操業をストップし織工を解雇したが、オーウェンのニューラナークでは機械はとめたが労働者は解雇せず賃金の全額を引き続き支払った。綿花輸入が再開されるまでの4ヶ月の間、労働者の給料を一文たりとも差し引かず、休業中にも7千ポンドを支払った。これによって労働者の信頼を勝ち取り、工場改革でなんら妨害されることはなかった。<オウエン『同上書』p.128>
世界最初の幼稚園 オーウェンは社会の改良の第一歩は教育、しかも幼児教育だと考えた。ニューラナークの村でも労働者の住まいは子育てには向かず、親が一日中働いている間、子供たちは邪魔にされほったらかされていた。そこでオーウェンは1802年に幼児を預かり育てる施設、今で言えば幼稚園を実際に造った。オーウェンは世界で最初の幼稚園だと言っている。一般に幼稚園の創始者はドイツのフレーベルとされているが、それは1840年であるから、確かにそれより早い。
 オーウェンは若い教師たちに、「どんな訳があろうと子供を決して打つな、どんな言葉、どんなしぐさででもおどすな、罵詈を使うな、いつも愉快な顔で、親切に、言葉も優しく小児と話せ」とか、「小児を書物でいじめるな。身のまわりにころがっている物の使い方や本性・性質を教えるものだ、小児の好奇心が刺激され、それについて質問するようになった時に、うちとけた言葉で。」と命じ、その通りに実践されたことで、すぐに成果が出始めた。<オウエン『同上書』p.259>

工場法の改正

 当初のオーウェンの立場は、産業資本家としてあり、労働条件の改良や労働者の生活環境の向上は、工場の経営(収益)という資本家側にとってもつながると考えて社会改良を実践しようとしたものだった。その考えに基づき、ニューラナークでの工場だけでなく工場のある村でも社会改革にあたった。ニューラナークの紡績工場はその意味では成功し、全国的にも知られるようになった。次ぎに児童労働の制限というさし迫った課題のためには、法律の制定が必要と考え、積極的に議会への請願活動をおこなった。
(引用)この時代の小児は6歳で綿糸・羊毛・亜麻・絹紡績工場に入るのを許されたが、ときどきは5歳ではいるものすらあった。労働時間は夏でも冬でも、法律によって制限はされず、普通一日に14時間であった。――所によっては15時間、さらに最も残忍強欲なものは16時間のさえあった。――しかも大抵の場合工場は健康にわるい烈しい状態にまで人為的に加熱されていた。<オウエン『上掲書』 p.212>
紡績工場法による幼児労働の禁止 オーウェンの議会への働きかけで工場法が改正され、1819年紡績工場法が制定された。それによって、9歳未満の労働禁止、16歳以下の少年工の労働時間を12時間に制限された。 → 一般工場法制定

宗教批判

 しかし次第に資本家として社会改良を進める上で、大きな障害があることに気づきはじめた。オーウェンは改革を阻む古い「迷信」を打破することが必要だと思い詰めるようになった。1817年にロンドンで演説会を開き、そこでまず批判を試みたのはイギリス国教会を始めとする、あらゆる宗教だった。宗教は、本来自由で平等で平和であった人間を、桎梏と差別と闘争に導いている、と激しく攻撃するオーウェンの演説はセンセーションを巻き起こし、一方でオーウェンを危険人物視する人々も現れた。オーウェンの思想はさらに、人間の解放のためには私有財産制度や婚姻制度も廃止しなければならないという内容に広がってゆき、その宗教否定とともに広く知られるとともに、急進的な人物と思われるようになった。(その一方、オーウェンは王室や名門貴族には敬意を払い、また「心霊」の存在は信じるなど、必ずしも急進的ではなかった。)
アメリカへ しかし、ニューラナークの共同出資者や幼稚園の協力者たちの中に、次第にオーウェンについて行けずに離反する者が増え、ついにその経営ができなくなってしまう。オーウェンは思いきってニューラナークの工場を売却し、その資金で1825年にアメリカに渡り、インディアナ州に土地を購入、ニューハーモニー村という共産制社会を建設した。そこでオーウェンは完全に平等な構成員からなる共同社会を実際に作ろうとしたが、集まった人々には雑多な思想が入り混じり、その中でオーウェンは独裁的になったために内紛が起き、維持継続はできず、失敗に終わった。

労働組合運動

 オーウェンは理想を捨てずに、帰国後は労働組合運動にとり組んだ。そのころ、1824年には団結禁止法が廃止されてたが、一方で1825年には資本主義社会で最初の恐慌が起きるなど、労働者の状況は悪化していた。1834年にはオーウェンの主導により、イギリスで最初の労働組合の全国組織として全国労働組合大連合(グランド・ナショナル)の結成を実現させた。これはやはり内部対立から数ヶ月で解散したが、労働組合運動は次第に盛んになっていった。
 一方で選挙法改正運動も盛んになり、1832年には第1回の選挙法改正が行われ、さらに労働者の参政権要求が高まり、チャーティスト運動も始まった。しかしオーウェンは、労働者の解放は選挙権の拡大よりも労働者自身の組合活動によって勝ち取るべきであると考え、チャーティスト運動には距離を置いた。

協同組合運動

 オーウェンの協同組合運動(Co-Operation)は、生産と消費をそれぞれ労働者が協同して行い、相互扶助によって自立していこうとするもので、貨幣を廃止して労働手形を発行することなども含む、新しい試みを提唱した。生産協同組合は資本との競争から組織として永続しなかったが、消費協同組合は、現在も世界各国で展開されている生活協同組合(Co-op)の源流となった。これらは労働者の手による社会改良を目指す意味で社会主義であり、若いマルクスエンゲルスにも影響を与えた。
オーウェンの社会主義 このようにロバート=オーウェンは初期の社会主義として意義のある思想家・実践家であったが、それを克服しようとした次の世代のマルクスやエンゲルスからは、フランスのサン=シモンフーリエと同じように、資本家階級として上から社会を改良しようとしたのが本質であり、科学的な理論と手段をもっていない、つまり実現不可能な「空想的社会主義」(ユートピア社会主義)と批判された。しかし、オーウェンはけして空想的ではなく、特に協同組合運動のように後世に大きな実体を残しており、イギリスにおいて労働党につながる運動となっていった。オーウェンの思想と実践は、マルクス主義ではないもう一つの社会主義運動の源流であったも言える。

参考 「空想的」でないオーウェンの自叙伝

 ロバート=オーウェンには、1857年(死の前年)に発表した『自叙伝』があり、古い文庫本であるが読むことができる。それを読むと、まともな教育を受けたことのないオーウェンが、自力で経営の才覚を身につけていった様子や、まさに産業革命期のマンチェスターなどの様子も知ることができる。けして成功談だけではなく、ニューラナークでは工場改革や幼稚園建設などに奔走するオーウェンに対して共同出資者から烈しい反対を受け、議会での工場法改正審議では紡績工場主に動かされた議員が工場での児童労働が健康に無害であるという論陣を張ったり、反対派はオーウェン自身のスキャンダルをでっち上げようとしたり、さまざまな苦労があったことが書かれている。かれの思想が、けして「空想的」だったのではないことを知る上で参考になろう。
 また内容の大きな部分は彼が「性格形成新学院」と名付けた2歳から12歳までの幼児・児童の教育についての議論であり、その実践もふくめてオーウェンは教育家でもあったという側面を伝えている。あまり知られていないと思うが、体罰の否定や宗教教育の無益を説くその言葉はいま読んでも参考になるのではないだろうか。かれはニューラナークの幼稚園に相当の自負をもっていたことが読みとれるが、同時に率直に園を継続できなかった理由も述べている。<ロバアト・オウエン/五島茂訳『オウエン自叙伝』1857 岩波文庫 1961>

世界遺産 ニューラナーク

 ニューラナークは、2001年に世界遺産に登録された。イギリスのスコットランド、グラスゴーの南方、クライド川の渓谷沿いに、現在もロバート=オーウェンの時代の紡績工場群とオーウェンが建設した(世界最初の)幼稚園施設が記念館として残されている。ニューラナークは、イギリス社会主義運動の発祥の地として重要なだけでなく、19世紀初頭の近代建築遺産としても貴重である。  → YouTube 世界遺産 ニューラナーク・ビデオ
 → YouTube People's Historian: Robert Owen and New Lanark
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ロバアト・オウエン
五島茂訳
『オウエン自叙伝』
1961 岩波文庫