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ローマ教皇領占領

1870年、イタリア王国はローマ教皇領を占領、翌71年、首都をローマに移しイタリア統一を完成させた。

 イタリアは長く統一した国家をもたずに経過していたが、その歴史と文化のいずれにおいても中心に位置していたのはローマであった。19世紀の前半からナショナリズムが形成され、イタリア統一(リソルジメント)を目指す運動が1850年代から本格化し、60年代を通じてサルデーニャ王国の主導権によって1861年3月、イタリア王国が成立した。しかし最初の首都となったのはサルデーニャの首都であったトリノであり、この段階ではローマを中心とした教皇領は含まれておらず、依然として教皇国家として存続していた。イタリア王国はローマの併合を図ったが、それを困難にしていたのは、カトリック国を標榜するナポレオン3世のフランス帝国であり、フランス軍が教皇領を守護するために駐屯していることであった。

普仏戦争の勃発

 ローマを併合することはイタリア統一の悲願であったが、ローマ教皇(ピウス9世)は駐屯するフランス軍に守られてローマ教皇領に対する世俗的支配権を維持し、王国への併合を拒否していた。しかし、1870年、普仏戦争が勃発して、ローマ駐留フランス軍がプロイセン軍との戦闘のため移動すると、併合の機会が来たと捉えたイタリア王国軍がローマを攻撃、教皇軍を破り、9月20日にピーア門から入城し、ローマ教皇領を占領した。

イタリア統一の完成

 これによって中世以来存続したローマ教皇領は消滅し、イタリア王国は半島ほぼ全域を統一した。翌1871年7月には首都をローマに移し国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世もローマに入り、イタリアの統一(リソルジメント)が達成された。
ローマ問題 ローマ教皇ピウス9世はすべての教皇領を失い、狭いヴァチカンに閉じこめられることになった。イタリア王国とヴァチカンはその後も対立が続く(ローマ問題という)。この問題は、1929年にムッソリーニラテラン条約をローマ教皇と結び、ヴァチカン市国の存在を認めることによって解決した。
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