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イタリア王国

1861年、サルデーニャ国王を国王として成立。首都はトリノ。

 1861年3月、制限選挙で選ばれた国会が、ヴィットリオ=エマヌエーレ2世を初代国王とすることに決め、イタリア王国が成立した。これによってイタリアの統一運動(リソルジメント)は一応達成された。首都は、サルデーニャ王国時代と同じくピエモンテ地方のトリノ(65年まで。その後71年までははフィレンツェ)。国家の主要ポストもほとんどピエモンテ出身者によって占められていた。憲法もカルロ=アルベルトの制定したサルデーニャ憲法が用いられ、その他の制度や法律もサルデーニャのものがそのまま使われた。

ローマの帰順

 この段階では、ローマとその周辺のローマ教皇領と、オーストリア領ヴェネツィアはまだ含まれていない。ヴェネツィアを併合するのは、1866年、普墺戦争でプロイセンを支援した結果、その講和条約によって実現した。またローマ教皇領を併合するのは1870年の普仏戦争でフランスが敗れ、ローマに駐在していたフランス軍が撤退するのを待たなければならなかった。1871年、ローマが正式に首都となり、ようやくイタリアは半島のほぼ全域を統治する国民国家を形成させた。

Episode 『クオーレ』と『ピノキオ』

 イタリア王国の統一から間もない1886年、デ=アミーチスの『クオーレ』が発表され、人気を博した。『クオーレ(心の意味)』は「母を訪ねて三千里」が日本でもアニメになったりして特に有名であるが、それは一つの挿話であり、本編はトリノを舞台に少年エンリーコの公立小学校の話である。平凡な《小国民》エンリーコの周りで、優等生や悪童たち、いろんな先生、こどものけんかに口出しする親たち、などなど19世紀イタリアの小学校生活が描かれており、現代の日本に通じている感じがして興味深い。一貫しているのは家族愛や祖国愛を涵養しようとしていることである。作者デ=アミーチス自身が統一戦争に従軍した経験があり、国王ヴィットリオ=エマニュエレ2世への敬愛や、カブール、マッツィーニ、ガリバルディなど独立の英雄への尊敬が作品に顔を出している。
 同じ時期にコッローディの『ピノキオ』も発表された。作者カルロ=コッローディも同じようにイタリア統一戦争に従軍した人であり、童話作家となってピノキオを創作した。ピノキオは親方のもとから飛び出した操り人形で、エンリーコとはちがってハチャメチャな冒険をくりかえすが、そこに色濃く出ているのは、たとえば嘘をつくと鼻が伸びるぞ、最後はよい子になって人間になるといった教訓である。コッローディも、統一と独立を達成した祖国イタリアの子どもたちに、正直で勤勉な生き方を期待したのであろう。発表当時は『クオーレ』は爆発的に売れたが、『ピノキオ』の方は評判にならなかった。ところが第1次世界大戦後のファシズムの台頭期になると、『クオーレ』の方は敬遠され、『ピノキオ』の人気が出てコッローディは《国民的作家》となる。<デ=アミーチス『クオーレ』和田忠彦訳 平凡社ライブラリー2007、コッローディ『ピノッキオの冒険』杉浦明平訳 岩波少年文庫 1958>

第一次世界大戦とイタリア王国

 イタリア王国はフランスのとの対抗上、ビスマルクの誘いを受けてドイツ、オーストリアとの三国同盟を結成した。しかし、未回収のイタリアの問題があってオーストリアとは利害が対立するところから、第一次世界大戦が始まると、イタリアはイギリスとのロンドン秘密条約で協商側に参戦した。

ファシズムとイタリア王国

 第一次世界大戦では協商側に参戦したにもかかわらず、領土的な要求は満たされなかったのでヴェルサイユ体制に不満が生じた。そのような国民感情を利用したムッソリーニファシスト党が支持を伸ばし、ローマ進軍という示威行為を行って、国王に首相就任を認めさせた。しかし、ドイツのナチズムとちがって、ムッソリーニはイタリア王国の国王を否定せず、その権威を利用しようとした。

国民投票で王政廃止

 そのため、ファシズム体制下でも王政は維持されたが、そのことが第二次世界大戦後に王政にとってはかえって命取りとなった。ムッソリーニ後、ドイツがイタリアを支配すると、国王はいち早くローマを離れてしまい、国民の反感を買い、第二次世界大戦後の1946年に王政治かどうかの国民投票が実施された結果、僅差ながら共和制が多数を占め、イタリア王政は廃止された。
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ノートの参照
第12章2節 オ.イタリアの統一
書籍案内

デ=アミーチス
/和田忠彦訳
『クオーレ』
2007平凡社ライブラリー

コッローディ/杉浦明平訳
『ピノッキオの冒険』
1958 岩波少年文庫