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ルイジアナ

17世紀後半、ルイ14世の時代にフランス領となり、七年戦争の結果、1763年のパリ条約でミシシッピ以西をスペイン、以西をイギリスに譲渡、アメリカ合衆国独立に伴い以東が合衆国領となり、以西はナポレオンが取り戻したが、1803年にアメリカに売却した。

 1682年、フランス人の探検家、ラ=サールがミシシッピ川流域を探検し、この地をルイジアナと名付け、時のルイ14世に献上した。このルイジアナは、現在のアメリカ合衆国のルイジアナ州の範囲よりも広いミシシッピ流域全体をさす地名であった。
 フランスはこの地の経営を維持ずることができず、1763年にヨーロッパでの七年戦争と連動して起こった、イギリスとフランスの戦争(フレンチ=インディアン戦争)の結果、敗れたフランスはパリ条約で、ミシシッピ川以西とニューオリンズをスペインに、以東をイギリスに譲渡した。
 アメリカ独立戦争で勝利して独立を達成したアメリカは、1783年のパリ条約でミシシッピ以東の地を獲得した。このミシシッピ以東のルイジアナは後に、ミシシッピ、アラバマ、ケンタッキー、イリノイ、インディアナ、オハイオ、ミシガン、ウィスコンシン、ミネソタの各州に分かれていく。この新たな領土に進出したアメリカ人は、さらにミシシッピ西岸のスペイン領にも移住していった。
 ミシシッピ以西のルイジアナを領有したスペインは、その統治が本国の財政を圧迫し、さらに移住してくるアメリカ人との衝突に苦しむようになったために手放すことをさぐり、秘密裏にフランスのナポレオンと交渉、1800年にスペイン=フランス間でサン=イルデフォンソの密約を結び、フランスに返却した。
 ミシシッピ以西のルイジアナはふたたびフランス領となったが、ミシシッピ川の河口近くでメキシコ湾に面しているニューオリンズは交易の中心として繁栄し、西方への進出を望むアメリカ人はその獲得を強く望むようになった。その要請を受けて大統領ジェファソンはニューオリンズの買収をナポレオンに持ちかけ、両国の思惑が一致し、1803年にアメリカに売却された。こうして広大なルイジアナはアメリカ領となったが、その後も南部には独特なフランス系文化が残存している。
 このときアメリカ領となったミシシッピ以西のルイジアナは、現在の合衆国のルイジアナ州だけでなく、アーカンソー、オクラホマ、ミズーリ、カンサス、アイオワ、ネブラスカ、サウスダコタ、ノースダコタ、ワイオミング、モンタナなどの各州を含む広大な地域であった。
※ルイジアナ領有関係のまとめ
・1682年 フランス領ルイジアナ成立
・ミシシッピ以東:1763年パリ条約でイギリス領 → 1783年パリ条約でアメリカ合衆国領
・ミシシッピ以西:1763年パリ条約でスペイン領 → 1800年ナポレオンのフランスに返還 → 1803年アメリカが買収

ルイジアナ買収

フランス領であったミシシッピ西岸のルイジアナを、1803年、ジェファソン大統領の時、アメリカ合衆国がナポレオンと交渉し、買収した。これによってアメリカの領土は約2倍に広がった。

 1803年、アメリカ合衆国ジェファソン大統領がフランスのナポレオン(当時は統領)から、ミシシッピー川以西からロッキー山脈に及ぶ広大なルイジアナを買収した。この地には後に、13の州がつくられることになった。

ジェファソン大統領による買収

 ルイジアナ(ミシシッピ以西)は七年戦争(フレンチ=インディアン戦争)後のパリ条約(1763年)でフランスからスペインに割譲されていたが、スペインは1800年にナポレオンとのサン=イルデフォンソの密約でフランスに返還していた。ルイジアナの中心都市ニューオリンズはミシシッピ川の河口に位置し、メキシコ湾に面していたので交易の中心として繁栄し、西方への進出を望むアメリカ人はその獲得を強く望むようになった。その要請を受けて大統領ジェファソンがニューオリンズの買収をナポレオンに持ちかけると、大陸でのナポレオン戦争の戦費の必要なナポレオンがそれに応じ、ニューオリンズだけでなくミシシッピ以西のルイジアナ全域の売却に応じた。フランスの現地で交渉に当たったのは駐フランス公使のモンロー(後の第5代大統領)であった。こうしてわずか3年後の、1803年にアメリカ合衆国による買収が行われた。
 このルイジアナは現在のルイジアナ州とはまったく異なり、ミシシッピ流域の西側からロッキー山脈に至る広大な土地であり、この買収によってアメリカ合衆国の領土はほぼ二倍近い広さになった。また東部13植民地から始まったアメリカ合衆国がこれによって領土を西部に拡大してゆき、さらに1840年代に太平洋岸に到達する前提となった。
 また、広大なルイジアナに居住していたインディアンは次第に圧迫され、その土地をアメリカ人入植者に奪われ、抵抗した人びとは虐殺され、最後には強制移住させられることとなる。
ジェファソンの葛藤 ジェファソンが決断したルイジアナ購入は、憲法違反の疑いがあった。アメリカ合衆国憲法によれば、憲法に記載されていない権限は州または国民に属するとされており、大統領に外国から領土を購入する権限があるという条項は無かった。ジェファソンはそのことに気づいていたが、憲法前文には憲法は国の防衛や国民の福祉増進を目的としており、第2条で大統領が外国と条約を締結する権限が記されていることから、この条項を拡大解釈することによってルイジアナ購入は可能であると判断したのだった。
 ジェファソンは自営農民こそが民主主義の中核であり、西部へ領土拡大することで農民の機会も広がると考えていたが、その一方で、アンチ=フェデラリストの立場に立つジェファソンは、連邦政府がこのような壮大な事業を進めることは、州の権限を重視する州権主義を弱める恐れもある。ジェファソンは連邦政府の権限が拡大しすぎて専制政治になってしまうことを恐れていた。しかし最終的にはこうしたマイナス面と、領土拡張から得られるプラス面の利益を天秤にかけ、利益の方が多いという現実的判断をしたのだった。<杉田米行『知っておきたいアメリカ意外史』2010 集英社新書 p.160>

Episode 世界最大の不動産取引

 ナポレオンのフランスがジェファソン大統領のアメリカに売却したルイジアナ(ミシシッピ西岸)の売却価格は1500万ドルであったという。広さは約214万平方kmあったから、1平方kmあたりわずか約14セントという安値であった。これは「世界最大の不動産取引」と言われるが、圧倒的にアメリカにとって有利な買い物だった。なお、1803年の1500万ドルは、2009年換算では約2億9000万ドル。1ドル100円とすれば、290億円となる。
 なお、アメリカはその後、1819年にはスペインからフロリダを500万ドルで買収、1848年には米墨戦争によってメキシコから現在のカリフォルニアからアイオミングにいたる広大な地域を1500万ドル(2009年換算で約4億2千万ドル)で買収した。また、1867年にはロシアからアラスカを720万ドルで買収、さらに1898年の米西戦争ではスペインとのパリ条約(1898)で、2000万ドルでフィリピンを買収している。

ナポレオンがルイジアナを手放した理由

 ジェファソンは反連邦派であり、連邦の拡大・強化には消極的であった。その彼がナポレオンとの交渉によってルイジアナの購入に踏み切ったのは、広大な領土そのものではなく(当時はまだどんな土地か知られていなかった)、フランスによってニューオリンズに通じるミシシッピ川の自由航行が抑えられることを恐れていたからであった。それでは、ナポレオンはなぜそれを手放すことに同意したのか。それはカリブ海のフランス領ハイチ(サン=ドマング)で独立運動が起きたことと関係している。
ハイチ独立の影響 ナポレオンはハイチ砂糖生産に特化させ、そこで必要な穀物をルイジアナから運んで補完するというメキシコ湾をまたいだ殖民地帝国建設を計画していたが、1798年にトウサン=ルヴェルチュールの指導するハイチ独立運動が激化し、その計画を破綻させることになる。ハイチを失えばルイジアナ領有の意味も無くなるので、ハイチの独立運動が激化する中でナポレオンはルイジアナを手放すことを決意した。事実、翌1804年にはハイチの黒人革命が成功し、黒人最初の共和国が誕生している。ナポレオンは将来的な植民地帝国の建設よりも、差し迫ったイギリスとの全面対決に備えて資金を確保するという現実的な判断をしたと考えられる。言い換えれば、トウサン=ルヴェルチュールの蜂起がナポレオンの殖民地帝国の夢を壊し、想定外のジェファソンの「自由のための帝国」の建設の夢を膨らませたのである。<富田虎男「領土拡張期のアメリカ」-『概説アメリカ史』1979 有斐閣選書 p.66 などによる>
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ノートの参照
9章2節 イ.アメリカにおける殖民地争奪
第12章3節 ア.領土の拡大
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杉田米行
『知っておきたい
アメリカ意外史』
2010 集英社新書

意外とまじめなアメリカ意外史。