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インド総督

1833年から1947年まで、イギリスがインド統治のために置いた機関。

イギリスは東インド会社にインド(及び中国)貿易の独占権を与えると共に、植民地統治も会社に請け負わせていたが、19世紀に入って産業革命が進行し、産業資本家層が成長すると、彼らは東インド会社の特権を廃止し、自由貿易を主張するようになった。政府もそのような要望に応え、東インド会社に対する本国政府による統制を強めるようになった。その一環として、1833年に「東インド会社特許法」を改正し、東インド会社の商業活動を停止すると共に、それまでのベンガル総督をインド総督に格上げして、東インド会社をその統制下に置いた。インド総督にはベンガル、マドラス、ボンベイの各管区の立法権を集中させた。

インド副王として総督

 1857年にインド大反乱が勃発すると、イギリス本国政府は反乱の原因を東インド会社のインド統治の失敗にあるとし、翌1858年に「インド統治改善法」を制定し、インド統治を東インド会社を通しての間接統治から、「国王の名の下に、国王の名による」直接統治に改めた。そのため、内閣に新たに「インド担当国務大臣」を置き、現地のインド総督に「副王(Viceroy)」の称号を与えて、本国政府から直接指揮される機関に改めた。11月11日、初代副王となった総督カニングは「この日よりインド国民は女王の臣下となること」を宣言した。<森本達雄『インド独立史』1973 中公新書 p.56>

その後のインド総督

 インド総督はイギリスのインド統治の現地機関として、1877年のインド帝国成立後も続いた。その後、インドの民族運動が激しくなると、インド総督はその弾圧機関として重要な役割を担うことになるが、スエズ運河の開通や電信の発達によって、本国のインド担当大臣からの指令で動くことが多くなった。
 1905年、インド総督カーゾンベンガル分割令を制定してベンガル地方をヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の地域に分割し、分割統治によって民族運動の盛り上がりを抑えようとした。しかし、それを機会に国民会議派のインドの自治を要求する民族主義運動が活発化することとなった。第一次世界大戦後から、ガンディーらの指導するインド独立運動を抑圧するのがインド総督の任務となった。
1947年、総督(副王)マウントバッテンがインド連邦の独立を見届けたが、当初はインド連邦としてイギリス連邦に加わったので、形式的には総督は存続し、最終的には1950年のインド共和国の成立、憲法制定によって名実共に無くなる。(本国のインド担当大臣は1947年に活動を停止)
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ノートの参照
第13章2節 イ.植民地統治下のインドと大反乱