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マッキンリー

アメリカ合衆国第25代大統領、共和党。米西戦争などの帝国主義政策を推進した。

 アメリカ合衆国の大統領。在職1897~1901。共和党。金本位制、保護関税政策をとり、東部を中心とした大資本家の支持を受け、ハワイ併合フィリピン併合米西戦争門戸開放の主張など、アメリカ帝国主義の外交政策を遂行した。そのもとで国務長官を務めたのが、ジョン=ヘイであった。マッキンリーは1901年、再選直後にアナーキストによって暗殺され、副大統領だったセオドア=ローズヴェルトが大統領に昇格した。

帝国主義政策の展開

 マッキンリー大統領が行ったアメリカ帝国主義の外交政策には次のような事例がある。19世紀末の帝国主義列強の中でも際だって積極的な海外進出であり、アメリカが帝国化する画期となった。

Episode キャンペーンバッジの始まり

 現代のアメリカの大統領選挙では、候補者のキャンペーンバッジが盛んに使われている。それが登場したのが1896年の大統領選挙で、共和党のマッキンリーと民主党のブライアンが、ニュージャージー州の徽章業者ホワイトヘッド&ホーグ社が作ったものを使ってからであった。小さな肖像写真をセルロイドのシートで覆い、裏側に金属のリングをはめてボタンに固定するもので、直径1インチ(2.54センチ)程度のものだった。大統領ひとりだけのもの(右の写真)と正副大統領を並べたものがあった。1900年の大統領選挙でもマッキンリーはキャンペーンバッジを作っている。これ以後、どの候補者にとってもバッジはなくてはならない選挙アイテムとなった。<志野靖史『カンバッジが語るアメリカ大統領』2010 集英社新書 p.13>

Episode マッキンリー大統領の暗殺

 マッキンリー大統領を暗殺したレオン=ショルゴッシュは、ユダヤ系ポーランド移民の子で、21歳の時、アメリカの政府は間違っていると考えるようになりアナーキストのグループに入った。1900年、アメリカ人の労働者でアナーキストのブレッシがイタリア国王ウンベルト1世を暗殺した新聞記事を読んで興奮した。1901年9月6日、マッキンリー大統領はバッファローで開かれたパン・アメリカン博覧会の会場で、大統領と握手するために列を作っていた人々に混じったショルゴッシュに撃たれた。ショルゴッシュは手に持ったハンカチの下に拳銃を隠し、大統領の胸と腹部を撃った。その場で捕らえられ、大統領は8日後に息を引き取った。ショルゴッシュは裁判を認めず、弁護士も頼まず、法廷で発言を拒否し、死刑が宣告された。10月29日、電気椅子で刑が執行され、さらに棺の中に硫酸を注いで死体をとかした。<コリン・ウィルソン『殺人百科』1961 弥生書房刊>

Episode マッキンリーからデナリへ

 植村直己さんが1984年に冬期単独登頂に成功した後、消息を絶った山として日本にもよく知られているアメリカ合衆国アラスカ州のマッキンリーは、6168mの北米大陸最高峰である。この山名は1896年に当時の大統領候補だったウィリアム=マッキンリーにちなんだもので、彼は翌年、第25代の大統領に就任した。しかし、先住民はこの山を「偉大なもの」を意味する「デナリ」と呼び、聖域としている。アラスカ州政府は1975年からデナリを正式名称に使うよう連邦政府に要求、80年には「デナリ国立公園」を設けた。
 2015年8月30日、ホワイトハウスは、マッキンリーをアラスカ先住民の呼び方「デナリ」に改称すると発表した。アラスカ州政府の40年にわたる要求を受けいれ、31日、オバマ大統領が同州で正式発表をする。ホワイトハウスは改称の理由として、先住民にとって聖域であり、マッキンリー大統領はアラスカに足を踏み入れたことはない、とした。<朝日新聞 2015年8月31日夕刊>
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ノートの参照
第14章1節 カ.アメリカ合衆国
書籍案内

志野靖史
『カンバッジが語る
アメリカ大統領』
2010 集英社新書

コリン・ウィルソン
『殺人百科』
1993 弥生書房