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ハワイ/ハワイ王国

ハワイ諸島には4世紀からポリネシア系の人びとが移住していた。1778年にヨーロッパ人としてクックが初めて来航。そのころハワイ諸島の統一が進み1795年にカメハメハ王朝によって統一されハワイ王国が成立。19世紀にアメリカ人の移住が増え、砂糖プランテーションが形成され、1893年にアメリカ人の武力によってリリウオカラニ女王が退位させられ滅亡した。翌年、アメリカ人によるハワイ共和国が成立、さらに1898年にアメリカ合衆国に併合されて準州となり、戦後の1959年に50番目の州となった。

ハワイ諸島 GoogleMap

太平洋のほぼ中央に位置するハワイ諸島は、4つの大きな島と周辺の島々からなる火山列島。すでに紀元前1000年頃からサモア諸島・トンガなどにポリネシア文化圏が生まれ、紀元後300年から750年ぐらいのあいだにハワイ諸島に伝えられた。ポリネシア文化圏は南西のニュージーランドから南東のイースター島まで広がり、ハワイ諸島はその北限にあたっている。ハワイ諸島の文化はタヒチ島とも深いつながりがあり、広い海洋文化圏を形成したことが判っている。
 ハワイ Hawaii は現地の言葉ではハワイイというのが正しい。ハワイ諸島は統一された地域ではなく、各島を数人の王(首長)が分割して統治している状態であったが、言語や宗教、社会制度は共通のものを持ち、島々は交易しながら時として戦っていた。他の太平洋の島々と同じくタロイモを主食とし、漁業に従事し、豚・鶏・犬などを飼育していた。これらは現在、ネイティヴ・ハワイアンの文化として見直されている。

クックの来航

 1778年1月18日、イギリスのジェームス=クックが、第3回の太平洋探検航海中に初めてハワイ諸島に到達した。ヨーロッパ人にとっては未知の島であり、ハワイ人にとっても初めて接触したヨーロッパ人、白人であった。彼らの出会いは最初は友好的であったが、翌1779年、ハワイ人は多数でクックを襲撃し殺害した。その直接的な理由はあきらかではない。<増田義郎『太平洋――開かれた海の歴史』2004 集英社新書>

カメハメハ王による統一

 クックが来た頃のハワイ諸島は三人の王によって分割統治されていた。そのうちの最大のハワイ島を支配していたカラニオプウ王の死後、子のキヴァラオと甥のカメハメハが争い、勝ったカメハメハはその勢いで1795年にマウイ島を攻撃して統一に乗り出した。その際、カメハメハはハワイに寄港していた西洋の船から軍事顧問を迎え大砲などの武器の助けを借りて勝利し、その後、島々を次々と制覇していった。ハワイ島には反カメハメハ派がいたが、彼らは火山の噴火に遭って全滅。ハワイでは火山は神聖視されていたので人びとは神がカメハメハに味方していると信じ、オアフ島、カウアイ島、ニイハウ島も次々と降り、1810年にハワイ諸島の統一を完成させ、初代国王カメハメハ1世としてハワイ王国を建国した。クックの到来以来、32年でハワイ人の王国が成立したことになるが、カメハメハ王の統一事業は、西欧の軍事力と、火山の噴火に助けられたものだった、と言える。

ハワイの産業の変化

 カメハメハ王は積極的な西欧との接触を図り、武器や造船、その他の生活必需品の製造技術、牛と馬という新たな家畜の導入などを熱心にすすめ、その際に白人の力を借りることをためらわなかった。また白人の商人は初めはハワイの白檀(香木)に目を付け、それを輸出しようとしたので、王は白檀の山を占有し、莫大な利益を得た。その代わり、次第にハワイの山のどこにでも生えていた白檀はやがて姿を消すことになる。
 代わって盛んになったのは捕鯨業で、アメリカから沢山の船乗りがやって来た。そのころ、捕鯨は太平洋で最も盛んで、1841年に遭難した日本人漁民ジョン万次郎もアメリカの捕鯨船に助けられてハワイにやってきている。また『白鯨』を書いたハーマン=メルヴィルも1843年にハワイを訪れている。1848年にアメリカでカリフォルニアで金鉱が発見され、ゴールド=ラッシュが起こり、アメリカの領土が太平洋岸に達した。その結果、アメリカの太平洋進出が本格化し、捕鯨船の寄港地を設けることを要求するため、アメリカは1853年、ペリーを浦賀に派遣し、江戸幕府に開国を要求したのだった。
砂糖産業と移民の増加 次いでハワイに導入されたのがサトウキビであった。西アジア原産のサトウキビはスペイン人によって西インド諸島などに持ち込まれ、さらに気候の合うハワイにもたらされてアメリカ人によって砂糖プランテーションが作られた。当初はハワイ人を労働力としていたが、間もなく不足するようになって中国人の移民が急増し、1868年4月からは日本人移民※もやって来るようになった。こうして砂糖産業がハワイ最大の産業となっていった。<矢口祐人『ハワイの歴史と文化』2002 中公新書 p.174- などによる>
※1868年は明治元年。120人が渡航した。まだ日本人の海外移住は正式には認められていなかったので、彼らは密航者としてやってきた。この最初の移民は後に「元年者」と言われた。

アメリカ人の圧力強化

 カメハメハ王は憲法を制定し西欧風の立憲君主政を導入した。法律の制定や、経済の運用など実際の政権運営でも多数のアメリカ人が顧問として迎えられ、彼らの存在はハワイ王国では不可欠になっていった。またアメリカからはキリスト教宣教師が多数来島し、学校教育の導入などを助けながら布教に努めた。そのうちにハワイ王国の中枢は白人の大土地所有者、商人、宣教師に占められるようになり、彼らにとって次第にカメハメハ王朝の国王の存在は無用なものとみられるようになっていった。
 1875年にはアメリカはカラカウア王と条約を結び、ハワイからアメリカへ精製前の砂糖を関税なしで輸出できるようにする代わりに、ホノルルの西数十キロのところにある真珠湾(パールハーバー)をアメリカ以外の国貸与しないという取り決めを行い、そこに海軍基地を建設することとした。1875年頃から砂糖業が盛んになるとさらにアメリカ人入植者が増加し、アメリカへの併合を主張するようになった。

Episode ハワイ王室と日本の皇室の縁談

 ハワイ王国のカラカウア王はこのようなアメリカ人の介入を強く警戒していた。それに対抗するために彼はある外交上の秘策を思いついた。1881年、カラカウア王は日本を訪問、表向きは日本人移民を労働力として送って欲しいという交渉であったが、このとき国王は随行したアメリカ人側近に知らせずに明治天皇に面会を求めた。面会に応じた天皇に国王が密やかに切り出したのは、ハワイ王室と日本の皇室が縁戚関係を結ぶことだった。自分の姪の5歳になるカイウラニ王女と15歳になる山階宮定麿が具体的な候補者としてあげられた。驚いた明治天皇(この時29歳)は、前例のないことなので、として即答を避け、後日返答すると言って帰ってもらった。結局この縁談は成り立たなかったが、カラカウア王は真剣だったのであり、アメリカに抵抗するためには日本との結びつきを強くしておくことが必要だ、と考えていたのだった。<猿谷要『ハワイ王朝最後の女王』2003 文春新書 p.11-14>
 もし、この縁談が成立していたら・・・。太平洋の歴史は大きく変わっていたであろう。

ホノルル・ライフルスの憲法改正強制

 彼らは1887年に秘密結社ハワイ同盟を結成し、独自の武装組織ホノルル・ライフルズといわれる部隊を編成し、カラカウア王に圧力をかけ、王権を制限し白人が優位に立つ議会の権限を強化した憲法改定を認めさせた。この憲法は銃剣によって脅されて制定したので「銃剣憲法」といわれている。このようなアメリカ人入植者によるハワイ王国支配に対して反発したハワイ人は、1889年に反乱を起こした。その指導者はアメリカ人と先住民の混血の青年ロバート=ウィルコックスという人物で、彼は自由愛国協会を組織し、ハワイ王国の王権の回復、先住民の地位向上などを掲げた。
中国人・日本人の移民 このハワイ人の反乱には中国人の移民である華僑の一部が加わった。華僑にはハワイ王統や先住民と友好な関係を持つものも多かったが、反乱に参加した背景には1882年にアメリカ本国で中国人移民排斥法が成立していたので、ハワイにもそれが適用されることを懸念したことが考えられる。1885年からは日本政府公認の日本人移民が開始されている。

リリウオカラニ女王

最後のハワイ女王

 ハワイ王国は立憲君主政をとり、諸外国とも外交関係を持つ独立国家であった。それに対するアメリカの介入圧力は次第に強まっていった。1891年、カラカウア王はアメリカ訪問中にカリフォルニアで急死(これも毒殺ではないか、といううわさがあった)、代わって妹のリリウオカラニが女王となった。リリウオカラニはカメハメハ大王の血筋を引く女性で、アメリカ人のジョン=ドミニス(オアフ島知事)を夫としてアメリカ文化にも親しんでいたが、ハワイ王国を守る強い意思も有していた。
 1893年1月、リリウオカラニ女王は、1887年に強要された憲法を廃棄すると議会に通告した。この憲法は立憲君主政とはいえ国王には権限が与えられず、何よりも選挙権が財産で制限されたことでハワイ人は実質的に参政権が奪われていた。この強硬姿勢にアメリカ人の併合推進派は驚き、直ちに強く反発して、ホノルル・ライフル隊を宮殿に乗り込ませて武力制圧した。これは武力クーデタであり、同時にアメリカ公使も海兵隊を上陸させて圧力を加えるありさまだった。リリウオカラニ女王のもとで少数の王国派は存在し、ハワイの民衆も女王を支持、一時は騒然としたが、1月17日、ついに女王は退位し、ハワイ王朝は滅亡した。<猿谷要『ハワイ王朝最後の女王』2003 文春新書>

Episode 最後のハワイ女王が作曲したアロハ・オエ

 リリウオカラニは反逆罪の容疑で逮捕され、裁判にかけられて重労働5年の有罪判決を受け、ホノルルの旧宮廷の建物に幽閉された。その徒然の中で、もともとハワイの音楽に通じていたリリウオカラニは沢山の歌を作っている。その一つが、今も広く歌われている“アロハ・オエ”である。アローハはハワイのあいさつや別れの表現で、アローハ・オエで「あなたが歓迎されますように、愛されますように」という意味になる。幽閉の身にあるリリウオカラニはハワイ王国へのお別れの歌として作曲したのかもしれない。 → ユーチューブリリウオカラニ ハワイ最後の女王のストーリー
 その後、自由の身となったリリウオカラニは渡米し、クリーブランド大統領に復権を訴えたが実現することはなく、ハワイのアメリカ併合後も生き、1917年に79歳で亡くなった。

ハワイ共和国の樹立

 ハワイ王国を倒したアメリカ人の強硬派は臨時政府をつくった。彼らはアメリカ合衆国もイギリス国王の支配を倒して共和政国家を建設したのであり、ハワイでも王制打倒・共和政樹立は歴史の必然である、として自分たちの行動を正当化し「ハワイ革命」を成就した、と述べた。さらにアメリカ人の中には、本国との結びつきが強い人びとも多く、彼らはこのままいけば移民たち、特に日本人移民が増加し。ハワイはやがて日本に併合されてしまう、という危機感をあおり、直ちにアメリカ合衆国への併合を主張した。アメリカでも大統領ハリソンの共和党政権は、積極的にハワイ併合をすすめようとしていたので、直ちに実現するかと思われたが、1892年の大統領選挙で民主党クリーブランドが復活し、クリーブランドはハワイ王国から共和国への移行が正常なものではなかったことを見て取って、その併合についても認めない方針をとった。
 そのため併合派は直ちに併合することを諦め、翌1894年7月4日、併合派の中心人物サンフォード=ドールを大統領とするハワイ共和国を成立させた。これはかつて、メキシコ領であったテキサスでアメリカ人入植者が独立運動を行い、まずテキサス共和国を独立させてから後にアメリカ合衆国に併合して州としたという、「テキサス方式」に倣おうというものであった。しかし、ここで樹立されたハワイ共和国は、ハワイ人が自ら樹立した共和国ではなく、白人が他民族の主権を力ずくで奪った行為であり、また共和政とは言いながら、ハワイ人、さらに中国人や日本人などの非白人に平等な権利は認められていなかった。

孫文のハワイ滞在

 このアメリカ人によるハワイ共和国樹立という激変のさなかのハワイに、中国から訪問してきたのが若き日の孫文(28歳)だった。日清戦争最中の上海から1894年8月にハワイに渡った孫文の目的は、清朝を打倒するために華僑を組織して資金援助を受けるためだった。ハワイ王朝が倒される現実を目の当たりにして祖国の植民地化に強い危惧を抱き、その地の中国人に清朝打倒を呼びかけ、1894年11月、ハワイで興中会を結成した。<深町英夫『孫文』2016 岩波新書 p.19>

日本の「ハワイ事変」

 1893年にハワイ王国がアメリカ人によって倒され、保護国化から一気に併合へと動きそうになったことに強い関心を示した国があった。それは大西洋の西の端の日本だった。すでに当時ハワイには多数の日本人が移住しており、その地がアメリカ領となることは日本政府にとっても無視できない。しかもハワイ王国の王党派は日本に援助を求め、駐日ハワイ公使は日布(日本=ハワイ)修好通商条約を対等条約とする改正案を提示しており、4月に改正条約が締結された。これはメキシコに次ぐ、日本にとって二つ目の対等条約であった。
 そのハワイがアメリカに併合されそうになったことを知った日本政府は邦人保護を理由に1893年11月、巡洋艦浪速をハワイに派遣、アメリカを牽制している。浪速は翌年高千穂に替わった。しかし翌年3月、高千穂をハワイから撤収した。アメリカを牽制することはできたが、親日政権を樹立することはできなかったからである。これは当時、「ハワイ事変」といわれ、一方の朝鮮問題が急を告げ、1894年に日清戦争へと進んだことと並んで、条約改正問題以外の外交課題となっていた。ハワイはやがて日米開戦の場所となるが、この時点ではハワイ事変の象徴的な意味に気づく人は少なかった。<佐々木隆『明治人の力量』日本の歴史21 2002 講談社 p.116>

ハワイ併合

1893年にハワイ王国を倒したアメリカ人在住者は、直ちに合併を望んだが民主党クリーブランド大統領に拒否されたのでハワイ共和国を樹立した。その後、共和党マッキンリー大統領にかわり、米西戦争などの帝国主義政策が取られることとなり、1898年にハワイを併合した。第二次世界大戦後の1959年に合衆国の州となった。

 19世紀中頃からアメリカの進出が顕著になり、1893年にアメリカ人入植者はクーデタでハワイ王国を倒し、翌年ハワイ共和国を成立させ、その上でアメリカ合衆国への併合を申し出た。しかしその時の大統領民主党のクリーブランドはハワイ併合を認めなかった。1898年に大統領が交代し、共和党のマッキンリー大統領が就任したことで、アメリカは帝国主義的膨張策へと転換し、状況は大きく変化した。  そのころ、遠く太平洋の西のはずれで日本は1894年に日清戦争で勝利し、朝鮮王朝での権益確保に努め、1904年の日露戦争を機に一気に保護国化に乗りだし、05年に第2次日韓協約によって保護国化、10年に韓国併合を完了させている。

マッキンリー大統領の帝国主義政策

 まず、キューバの独立運動の支援を口実として米西戦争をスペインと戦い、スペイン領フィリピンに出兵、さらにグァム島占領などをすすめていった。その中で、アメリカはハワイ併合を決意、1898年8月12日、議会で決議され、正式に併合された。これは、マッキンリー大統領のもとで展開されたアメリカ帝国主義の領土拡張の動きの一環であった。すでに米墨戦争でメキシコを破っていたアメリカ合衆国は、アメリカ大陸の中で領土を拡張する段階は終わり、海外に領土を拡張する段階に入っていた。これは1823年のモンロー教書以来の対外領土膨張を否定していたアメリカ外交が、大きく方向を転換したことを示していた。 → アメリカの外交政策

アメリカの一部としてのハワイ

 その後ハワイは、1900年にアメリカの準州となり、アメリカ海軍の太平洋艦隊基地として戦略的な重要性を強めていった。1941年12月8日、日本軍はハワイの真珠湾攻撃に踏みきり、太平洋戦争が勃発、アメリカの参戦という大きな転換点を迎えた。第二次世界大戦後の1959年、ハワイはアメリカ第50番目の州に昇格した。
(引用)ハワイは長い間、ヨーロッパ列強と日本が狙っていた。アメリカ人宣教師は19世紀初頭、すでに渡来し、アメリカ人は砂糖利権の開発に参加していた。19世紀の終わり、アメリカ人は土着の支配者の政治に不満を持つようになり、93年彼らはリリウオカラーニ女王に対し反乱をおこし、彼女に退位をせまり、共和政をうちたてた。かれらはハリスン大統領の時、アメリカとの併合を交渉し始めた。しかし民主党クリーブランド大統領は帝国主義的併合をきらい、その計画を阻止した。97年6月共和党マッキンレー大統領はアメリカ人の支配下にあるハワイ政府と二度目の併合条約を結び、その批准を待つうち、スペインとの戦争が始まった。併合推進者たちはその計画が挫折するのを恐れ、条約という形ではなく両院における合同決議という形で98年7月7日可決させ、それを待って8月12日ハワイは正式に併合された。その後1900年に准州として政府形態を与えられる。<ビーアド 『アメリカ合衆国史』P.341>
補足 アメリカがハワイを併合した際、ハワイ側から併合の要望が出されたという形となった。帝国主義列強が他国を併合する際に、このような例は1910年の日本の韓国併合がある。この場合も韓国側から併合の要請がなされたとされているが、それは日本は保護国である韓国を併合するという非難を避けるためであった。

100年後の謝罪決議

 アメリカ人のクーデタでハワイ王国が倒された1893年から100年後の1993年、ホノルル市内では多数のネイティヴ・ハワイアンが集まり、抗議の集会とデモが行われた。このときネイティヴ・ハワイアンとして初めてハワイ州知事を務めていたジョン・ワイヘエは100周年の記念行事のあいだ、州庁舎からアメリカ国旗を降ろし、ハワイ王朝の国旗(今はハワイの州旗になっている)だけを掲げることを表明した。「星条旗への冒瀆である」との猛烈な批判にもかかわらず知事は決断を実行した。「ハワイアンとしてのプライド」を宣言し、100年前の不正義を「耐え忍んできた」ことへの敬意を表すために旧ハワイ国旗を高く掲げるべきだと主張したのである。
 そしてついに、アメリカの連邦政府は過去の誤りを認め、謝罪するにいたった。ネイティヴ・アメリカンに対する「謝罪決議」が連邦議会を通過し、クリントン大統領はハワイ王朝の転覆にアメリカ政府が関与していたことと、その後の併合がネイティヴ・ハワイアンの意思を充分に確認しないまま強行されたことを公式に認め、今後、かれらの文化的アイデンティティの保持を従来以上に促進すべきだと述べた。金銭的な補償や、アメリカ本土に住むネイティヴ・アメリカンに認められているような、アメリカ国内である程度の自治を有する「国家」を持つ権利までは認められなかったものの、連邦政府がネイティヴ・ハワイアンの歴史と文化の重要性とともに、過去の過ちを公に認めたことは、かれらにとって重要な勝利だった。<矢口祐人『ハワイの歴史と文化』2002 中公新書 p.204-205>
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書籍案内

増田義郎
『太平洋――開かれた海の歴史』
2004 集英社新書

矢口祐人
『ハワイの歴史と文化』
2002 中公新書

猿谷要
『ハワイ王朝最後の女王』
2003 文春新書

佐々木隆
『明治人の力量』
日本の歴史21 2002初版
2010 講談社学術文庫