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オーストラリア

1642年のタスマンが最初に到達し、1770年のクックなどが探検し新大陸であることが判明した。1788年から流刑地とされ、アボリジニーの土地を奪いながらイギリス植民地として存在した。

 オーストラリアの名は、17世紀初めにスペインの探検家キロスが南半球に大陸の存在を認め「テラ・オーストラリス・デル・スピルツ・サントウ」(聖なる南の大地)と名づけたのに始まる。キロスの副官だったトレスはニューギニアと新大陸(まだ新大陸だと気付かなかったが)の間の海峡を通過した。それが現在のトレス海峡である。1642年にオランダの東インド会社はタスマンに南方大陸の探査を命じ、タスマンはこの新大陸の周辺を調査し、ニューホランド大陸と名付けた。またその調査の際に、タスマニア島とニュージーランドを発見した。しかし彼はこれらの陸地と貿易の利益はないと報告したため、オランダはそれ以上探検を続けることはなかった。

イギリス植民地としての発展

 その後この未知の大陸は100年以上忘れられていたが、1770年イギリスのクックが東海岸を測量して、新たな大陸であることを発見し、ニューサウスウェールズと名付けた。 その後、イギリスは先住民アボリジニーを征服しながら、流刑地植民地として植民地経営を行い、19世紀からは牧羊業が盛んになった。1829年にイギリスは大陸全土の領有を宣言した。
 1851年にニューサウスウェールズなどで金鉱が発見され、移民が激増した。それに対してヨーロッパ系移民の反発が強まり、1880年代からはアジア系移民の受け入れを制限する白濠主義がとられた。 → オセアニアへの人類の拡散

流刑地とアボリジニ虐殺

 1788年、オーストラリアに最初の囚人が送られた。イギリスにとって、オーストラリアは長い間、流刑地以上には考えられていなかったが、アボリジニーの土地を奪うことは自明のように進められた。
(引用) アボリジェの人々は、イギリスの囚人だちか1788年に到着し始めると最初に追い出され、虐殺された……以来、イギリス人がこの非常に魅力的な土地を専有するようになった。1837年には、イギリス議会も、アボリジニに起こっている事態に懸念を抱いていると表明した。彼らは「泥棒のような扱いを受け」、「まるで犬かカンガルーのように内陸部に追いやられていた」。だか、これは正確な言い方ではない。アボリジニは移動させられるより、殺されてしまう場合の方か多かったからだ。たとえば、タスマニアでは、1804年から34年にかけて先住民の大半が殺害され、アボリジニを捕えた人には報奨金か与えられた。19世紀の後半に入ると、人種主義的色彩の強い似非科学の後ろ盾もあって、多くの白人は、こうした殺人を義務であると感じるようになった。 ・・・<クリス・ブレイジャ/伊藤茂訳『世界史の瞬間』2004 青土社 p.169>

オーストラリア連邦

1901年、イギリス帝国内の自治領と認められ、連邦国家となる。1931年、イギリス連邦を構成する国家として実質的に独立した。

オーストラリア国旗
オーストラリア国旗
ユニオンジャックの下の星は6つの州と1つの直轄領、右の星は南十字星を示す
 1901年、イギリスはオーストラリアの自治を認め、ニューサウスウェールズ、タスマニア、西オーストラリア、南オーストラリア、ヴィクトリア、クィーンズランドの6州からなるオーストラリア連邦とした。それによって自治領(ドミニオン、実質的には独立国)としてイギリス植民地会議の構成員となり、さらにその会議が1907年にイギリス帝国会議と改称されるとその主要構成自治領となった。1931年、イギリス議会がウェストミンスター憲章を定め、イギリス連邦が発足すると、その一員となった。形式的には1942年、イギリス連邦の一員であるが、本国イギリスに対しては対等な主権を持ち、実質的な独立を達成した。
オーストラリア総督 憲法上は国家元首はイギリス国王(現在はエリザベス2世女王)であり、通常はオーストリアにはいないので、代理として総督(Governor-General of Australia)が置かれている。総督はかつてはイギリス本国から派遣されていたが、現在はオーストリア首相が指名し、イギリス国王が任命する形をとり、オーストラリア生まれの人が就任している。総督は儀礼的な存在であるが、憲法上は首相の任命権を持つので、時として政党間の対立から総督の任命権が行使されて問題となることもあった。

白濠主義

 オーストラリアでは中国人(華僑)などアジア系移民が増加するに伴い、ヨーロッパ人以外の移民を制限する声が強まり、1880年代から「白濠主義」がとられ、長くその移民制限を続けていた。ようやく1970年代からは再びアジア系移民を受け入れるようになり、現在は「多文化主義」を掲げ、民族間の融和をはかっている。また原住民アボリジニーの復権もはかられているが、まだ多くの問題が残っている。

Episode 「出会いの場所」首都キャンベラの建設

 オーストラリア連邦が成立したとき、どこを首都にするかの問題で、シドニー(ニューサウスウェールズ州)とメルボルン(ヴィクトリア州)の二大都市の間で激しい議論となった。10年間も議論をした結果、双方の中間の地に全く新しい首都を建設することで落ち着いた。その地キャンベラは、先住民アボリジニーの言葉で「出会いの場所」という意味であった。都市の設計は広く世界に公募され、シカゴの36歳の建築家のプランが採用されたが、その工事は第一次世界大戦のために延期され、完成したのはようやく1927年であった。<遠藤雅子『オーストラリア物語』平凡社新書 2000 p.132>

国際関係

 イギリス連邦の一員として実質的独立を達成したが、当初はイギリスとの結びつきも強く、第一次世界大戦ではイギリスに協力して参戦し、ヨーロッパ戦線でニュージーランドとの連合軍(ANZAC)軍としてガリポリの戦いでオスマン帝国軍と戦い、大きな犠牲を出した。
 第二次世界大戦でも連合国の一員として戦い、南下する日本軍の侵攻を受け直接交戦し、日本空軍の空爆も受けた。日本軍がマレーシアのサンダカンに設けた捕虜収容所で、オーストラリア兵捕虜に対する虐待事件がおこっている。また、オーストラリア軍が設置した日本兵捕虜収容所カウラでは日本兵の集団脱走事件が起きている。
 第二次世界大戦後の冷戦時代には1951年の太平洋安全保障条約(ANZUS条約=オーストラリア、ニュージーランド、アメリカ合衆国間の安全保障条約)に加わり、西側軍事同盟に組み込まれていたが、現在はイギリス本国・アメリカ合衆国とも一定の距離を置き、資源大国として独自の道を進んでいる。
共和制移行を国民投票に問う  オーストラリアには、イギリス連邦から離脱し、立憲君主国であることを止め、完全な共和制国家にすべきであるという声がかなり存在する。1999年には、共和制移行の可否を問う国民投票が行われたが、結果は立憲君主政の維持が多数を占めた。
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ノートの参照
第12章4節 エ.地理上の探検
第14章1節 イ.イギリス
第14章2節 イ.太平洋地域の分割
書籍案内

遠藤雅子
『オーストラリア物語』
2000 平凡社新書