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中国人移民排斥法

アメリカ合衆国で、1882年に制定された、中国人移民を禁止する法律。中国人労働者入国禁止法とも言う。1860年代に急増した中国人移民にたいする白人労働者の反発を背景に制定された、アメリカ最初の移民制限法であった。

 アメリカ合衆国への移民のなかで、中国人は1840年代から始まり、60年代に急増した。しかし、70年代に激しい中国人排斥運動が起き、1882年に中国人移民を禁止するこの法が制定された。
 中国人が海外に出て行くことは南洋華僑にみるように以前から活発であったが、清朝政府は公式には海外移民を禁止していた。しかし、アヘン戦争の結果、1842年に南京条約によって開国し、アメリカとの間では44年の望厦条約によって国交が開かれると、中国人でアメリカに向かうものも出てきた。アメリカでは黒人奴隷制が廃止されたため、それに代わる安価な労働力として中国人移民は歓迎され、ゴールド=ラッシュ時代の西海岸の鉱山で急増していった。1860年代の大陸横断鉄道建設が始まるなか、1868年には中国からの移民が無制限に認められ(バーリンゲイム法)、多くの中国人労働者が苦力(クーリー)といわれて酷使された。特にカリフォルニアでは1870年代には州人口の9%をしめるまでになった。
 1870年代には経済の不況もあり、低賃金で働く中国人労働者の存在は、白人労働者の反発をまねくようになった。中国人が辮髪や中国服・中国語を捨てず白人に同化しないことにいらだちを感じるようになり、中国人移民排斥運動が激しくなった。白人の中国人に対する人種的な差別、攻撃はたびたび暴力的になり、多くの犠牲者が出た。労働組合も中国人労働者の排斥を強く訴え、組織的な中国人排除の動きは、しばしば残虐な殺人も行われた。これらの運動に捺されたアメリカ合衆国議会は、1882年に中国人労働者移民排斥法を議決した。これは移民の国アメリカで初めて制定された移民制限法であった。 → 移民(アメリカ)

中国人に対する残虐行為

 中国人移民を排除する口実とされたのは、彼らが出国前に前金を支給されて渡米し、渡米後には自由に仕事を選べず苛酷な労働に従事させられるという「契約労働者」であることから、「労働騎士団」などの白人の労働団体がその非人道的扱いに反対したことがあげられる。一見、自由の擁護という崇高な目的であったが、実態は中国人というエイリアンに対する偏見と蔑視、それに自分たちの仕事が奪われるという不満が重なって、迫害となって現れたものであった。
 シアトルでは反中国人暴動が荒れ狂い、各地のチャイナタウンは焼き打ちされ、白人の自警団員は「豚のしっぽ切りパーティー」と称して、中国人の辮髪を切り落としただけでなく、彼らの頭の皮まで剥いだ。次のような証言がある。
(引用)記録に残る最も極端な、そして戦慄すべき残虐行為としては、暴徒が中国人男性の性器を切り取って食堂に持ち込み、草原の<かき>として焼いて食ったというのがある。数千人の中国人が白人による危難から逃れて、中国へ帰った。その結果、アメリカ西部における中国人の数は、19世紀末に11万人からわずか6万人へと急減した。・・・<この部分、シーブレーブ/田端光永訳『宋家王朝』岩波現代文庫 p.76>

中国人移民排斥法とその後

 1882年の中国人労働者移民排斥法は、教師・学生・商人・旅行者以外のすべての中国人(つまり労働者)の入国を禁止し、すでにアメリカに在住している中国人も、帰化してアメリカ市民権を取得することを禁止した。これは当初は10年間の時限立法であったので、1894年からは条約で移民を制限した。1904年に向けて中国が条約更新を拒否したので、1902年には無期限立法が行われた。
 この間、中国人移民は正規ルートでは途絶えたが、密入国が跡を絶たなかった。労働力の需要は減らなかったので、1880年代以降は中国人に代わって日本人移民が増加することになった。日露戦争後には日本人移民排斥運動が激しくなる。1924年には移民法が成立するすることとなるが、そこでは南欧・東欧系移民は数の上で制限され、日本人移民は実施的に禁止されたので「排日移民法」と言われる。
 なお、中国人に対する移民制限は第二次世界大戦中の1943年12月に廃止され、部分的にではあるが、中国人移民の受け入れが再開された。これは、日中戦争から第二次世界大戦へと展開する中で、中国が連合国の一員となり、1943年11月には蔣介石カイロ会談に参加し、アメリカの協力国となったことが背景にあった。この後、戦後は再び中国人移民が増加し、サンフランシスコやニューヨークなどにチャイナタウンが作られていった。

移民排除の意味と影響

 中国人移民や日本人移民に対する人種的偏見、排斥、残虐行為などと一連の移民制限法は、「移民の国、平等の国、自由の国」アメリカにおける、黒人差別だけでない人種問題が存在すること示している。
 また、中国人移民排斥運動によって中国(清)に戻った中国人を通じて、アメリカでの中国人に対する残虐行為を知った中国民衆の中には、その反動として、中国内の白人の商人や宣教師に対する反発が強まった。それが、中国民衆の反キリスト教運動である仇教運動義和団事件の背景にあったことを忘れてはならない。

ニューヨークのチャイナ・タウン

 アメリカ文化の研究者である亀井俊介さんのニューヨーク体験記『ニューヨーク』(岩波新書)の記事。
(引用)バウリーの大通りをさらに北へ歩き、東側にコンフューシアス・プラザ(孔子広場)を見たら、右側にはチャイナ・タウンがひろがって、一挙に活気をおびる。だが東はバワリー、南はファイヴ・ポインツに接するから、チャイナ・タウンの昔の貧民街ぶりもまた容易に想像がつくだろう。
 最初にニューヨークに来た中国人は、やはり船員だった。シナ貿易が盛んだったから、当然ともいえる。19世紀の中頃には、船員上がり、コック、安宿の下男などの中国人が、このあたりに住みついた。1869年に西部で大陸横断鉄道が完成すると、線路工夫に雇われていた大量の中国人が解雇され、また排斥もされて、一部はニューヨークまで逃れてきた。1870年代の中国系人口はおよそ二千となった。1882年には、中国人労働者入国禁止法が成立したため、第二次世界大戦まで、人口が4千を越えることはなかったが、妻や家族を呼び寄せることもできなくなり、殺伐たる「男社会」が出現したらしい。19世紀の末頃から、観光客向けの食堂や飲み屋に加えて、裏長屋的な売春宿の群がる地域となった。(中略)
 チャイナ・タウンは、中国人の生きていくための助け合いの場ともなったが、トング(堂)と呼ばれるギャングの結社を育て、それが血なまぐさい抗争をくりひろげる場とともなった。しかし結局、中国人の勤勉さがチャイナ・タウンを経済的に発展させた。第二次世界大戦後は移民法の改正もあって、中国人はふえるばかりで、人も商品も飲食店も恐ろしく元気がよい。その区域も東西南北のすべての方向にひろがり、たとえばもとはカナル通りの南側がチャイナ・タウンとされていたのに、いまではその北側のリトル・イタリーにも大きく侵出している。<亀井俊介『ニューヨーク』2002 岩波新書 p.20-23>
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