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フランツ=フェルディナント

1914年6月、サライェヴォ事件で暗殺されオーストリア帝国の皇位継承者予定者。

一般にオーストリア帝国ハプスブルク家のの皇太子とされるが、厳密には皇位(または帝位)継承予定者で大公の地位にあった。オーストリアは正式にはオーストリア=ハンガリー帝国で、皇帝の家系をとってハプスブルク帝国とも言われるが、当時の皇帝フランツ=ヨーゼフ1世であった。この皇帝には皇太子アドルフがいたが、自殺してしてしまったため、甥であったフェルディナントが皇位継承する予定者とされていた。

サライェヴォ事件に遭遇

 フランツ=フェルディナントは、1914年6月、妻とともにボスニアの首都サライェヴォを公式訪問した。1908年以来、オーストリア=ハンガリー帝国はボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合していたため、その地のスラブ系セルビア人住民の中に、強い反オーストリア感情があった。オーストリアとしてはパン=ゲルマン主義を掲げてバルカンに南下し、さらに地中海方面に出口を求めていたので、ボスニアに対する支配を強める必要があった。それがこの訪問の意味であったが、反発したセルビア人青年がこの夫妻を狙撃したのである。それがサライェヴォ事件であった。フランツ=フェルディナントと妃のソフィーはともにそれによって死んだ。時に51歳であった。
 オーストリアはセルビア人の犯行であることがわかるとこ宣戦を布告した。この事件の銃弾は二人の人間の死をもたらしただけでなく、遙かに超えて世界史の大事件、世界最初の世界大戦である第一次世界大戦勃発の引き金となった。

Episode 悲劇の結婚記念日

 1914年6月28日はボスニアの首都サライェヴォで、オーストリア皇位継承者フランツ=フェルディナントと妻ソフィーが暗殺され、第一次世界大戦の発端となった日であるが、この日は二人の結婚記念日でもあった。1900年のこの日、フランツ=フェルディナント大公は、伯爵令嬢ソフィー=コテックと結婚したが、「それは、沈みがちな、悲しい婚礼であった」。大公はハプスブルク家の後継者であり、やがてオーストリア皇帝・ハンガリー王となるべき人であったが、ソフィーは平凡な伯爵令嬢にすぎず、ハプスブルク家の婚姻としては許されないものであった(ハプスブルク家はそれまで外国の王女クラスを皇后として迎えるという婚姻政策でヨーロッパ随一の勢力にのし上がってきたのだった)。そのため、ソフィーは宮廷の公式行事には出席できなかった。しかし、大公は妻を深く愛していた。彼が妻を公式行事に同道できるのは、陸軍元帥として軍隊の観閲をするときだけだった。ボスニアでの閲兵式に妻を同行し、オープンカーに乗せたのは、ソフィーに皇位継承者夫人としての栄耀を楽しんでもらう唯一の機会だった。そして、その日が結婚記念日であった。「大公は、愛すればこそ死に赴いたのである。」<A.J.P.テイラー『第一次世界大戦』1963 新評論 P.11-12 などを参照>
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ノートの参照
第15章1節 ア.第一次世界大戦の勃発
書籍案内
第一次世界大戦 表紙
A.J.P.テイラー
/倉田稔訳
『目で見る戦史 第一次世界大戦』
1963 新評論