印刷 | 通常画面に戻る |

ドイツ革命

大戦末期の1918年11月、キール軍港の水兵反乱を機に兵士・労働者が蜂起し、皇帝が退位しドイツ共和国臨時政府が成立した。社会民主党左派のスパルタクス団はドイツ共産党と改称し、一気に社会主義革命への転換を図って蜂起したが、19年1月、社会民主党の握る臨時政府によって弾圧され失敗に終わり、同年2月に穏健な議会制と資本主義経済をかかげるヴァイマル共和国が成立した。

 第一次世界大戦の末期の1918年、ドイツ海軍が無謀な出撃命令を拒否して、キール軍港の水兵反乱が起きると、その動きはたちまちに全国に広がり、各地で労働者と兵士が連帯して労兵評議会(レーテ)が結成された。ベルリンでは1918年11月9日にそれまで戦争に協力してきたドイツ社会民主党も戦争中止と、皇帝の退位を認めざるを得なくなりヴィルヘルム2世はオランダに亡命して、ドイツの帝政は崩壊した。同日、社会民主党のエーベルトを首相とする政府が成立し、「ドイツ共和国」が発足した。こうして第一次世界大戦はドイツが敗北して終わり、ドイツ第二帝国は崩壊しドイツ共和国が成立した。

Episode シャイデマンの早とちり

 1918年11月9日、首都ベルリンでもゼネストが始まり、労働者大衆が街頭にあふれ帝国議会に向けてデモ行進した。彼らは休戦以外に何も訴えなかったが、それを出迎えなければならないと思った社会民主党のナンバーツーのシャイデマンは、帝国議会議事堂から、下で待っている群衆に向かってドイツ共和国の宣言をしたのだった。ところが社会民主党のトップのエーベルトは共和政ではなく立憲君主政を維持しようと考えていたので、シャイデマンのこの行為にひどく感情を害し、二人はすぐに帝国議会の食堂で大げんかとなった。エーベルトは急いでバーデン大公マックスを摂政として君主制維持を図ろうとしたが、マックスはそれをいやがり、結局エーベルトは既成事実を受け容れざるを得なくなった。<ハフナー/山田義顕訳『ドイツ帝国の興亡』1989 平凡社刊 p.150>
 こうしてシャイデマンの早とちりから、ともかくもドイツ共和国が成立した。

スパルタクス団の革命失敗

 社会民主党に対して、急進派のスパルタクス団はロシアのソヴィエトに当たる労兵評議会(レーテ)を権力の中枢につけようとしたが、多数を占めた社会民主党はそれを拒否し、選挙による国民議会の開催を進めた。政府と社会主義勢力の激しく対立するなか、1918年12月30日ドイツ共産党が結成され、1919年1月5日に社会主義政権を目指して武装蜂起した。

ヴァイマル共和国の成立

 軍部と結んだ社会民主党政府のエーベルトは共産党指導部・スパルタクス団をいずれも武力弾圧し、1919年1月15日ローザ=ルクセンブルクリープクネヒトを殺害した。これによって社会主義を目指した革命は終わりを告げ、ドイツは穏健な共和政国家を目指すこととなり、2月にヴァイマルで国民議会が開催され、ヴァイマル憲法のもとでの議会制民主主義をとるヴァイマル共和国となる。
 なお、1920年代にコミンテルンの指導を受けたドイツ共産党の革命運動もドイツ革命といわれるが、それらはいずれも社会民主党政権によって弾圧され、失敗した。

エーベルト=グレーナー協定による革命の弾圧

 ドイツ共和国首相となった社会民主党主流派のエーベルトは、労兵評議会(レーテ)を機関とする独立社会民主党スパルタクス団の共産主義革命を鎮圧するため、旧帝国軍のグレーナー将軍と協定を結び、軍を動員することにした。しかし、軍はすでに戦意を失っており、戦場を棄てて帰郷してしまっていたので、動員に失敗した。ついでエーベルトとグレーナー、及び新政府の国防大臣ノスケは軍の中の狂信的なカイザー派・ルーデンドルフ派の義勇兵をつのり、革命運動鎮圧に導入した。1919年1月、ベルリンでスパルタクス団(共産党)が蜂起すると、義勇兵を動員した政府側は残虐な弾圧を加え、革命運動を鎮圧した。この時、スパルタクス団の指導者リープクネヒトローザ=ルクセンブルクが殺害された。
印 刷
印刷画面へ