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ドイツ革命

大戦末期の1918年、皇帝の退位しドイツ共和国が成立したが、さらにスパルタクス団が社会主義の実現を目指して蜂起、権力を握った社会民主党主流派によって弾圧されて終わった。

 第一次世界大戦の末期の1918年10月、ドイツ海軍が無謀な出撃命令を拒否して、キール軍港の水兵反乱が起きると、その動きはたちまちに全国に広がり、各地で労働者と兵士が連帯して労兵評議会(レーテ)が結成された。ベルリンでは11月9日にそれまで戦争に協力してきたドイツ社会民主党も戦争中止と、皇帝の退位を認めざるを無くなりヴィルヘルム2世はオランダに亡命して、ドイツの帝政は崩壊した。同日、社会民主党のエーベルトを首相とする政府が成立し、「ドイツ共和国」が発足した。こうして第一次世界大戦はドイツが敗北して終わり、ドイツ第二帝国は崩壊しドイツ共和国が成立した。

Episode シャイデマンの早とちり

 1918年11月9日、首都ベルリンでもゼネストが始まり、労働者大衆が街頭にあふれ帝国議会に向けてデモ行進した。彼らは休戦以外に何も訴えなかったが、それを出迎え無ければならないと思った社会民主党のナンバーツーのシャイデマンは、帝国議会議事堂から、下で待っている群衆に向かってドイツ共和国の宣言をしたのだった。ところが社会民主党のトップのエーベルトは共和政ではなく立憲君主政を維持しようと考えていたので、シャイデマンのこの行為にひどく感情を害し、二人はすぐに帝国議会の食堂で大げんかとなった。エーベルトは急いでバーデン大公マックスに摂政として君主制維持を図ろうとしたが、マックスはそれをいやがり、結局エーベルトは既成事実を受け容れざるを得なくなった。<ハフナー/山田義顕訳『ドイツ帝国の興亡』1989 平凡社刊 p.150>
 こうしてシャイデマンの早とちりから、ともかくもドイツ共和国が成立した。

スパルタクス団の革命失敗

 社会民主党に対して、急進派のスパルタクス団はロシアのソヴィエトに当たるレーテを権力の中枢につけようとしたが、多数を占めた社会民主党はそれを拒否し、選挙による国民議会の開催を進めた。政府と社会主義勢力の激しい対立は1919年1月、プロレタリア革命を目指したドイツ共産党(前年12月にスパルタクス団から改称した)が武装蜂起したが軍部と結んだ社会民主党政府によって武力弾圧をうけ敗北することで終わりを告げ、以後は2月にヴァイマルで国民議会が開催され、ヴァイマル憲法のもとでの議会制民主主義をとるヴァイマル共和国となる。
 なお、1920年代にコミンテルンの指導を受けたドイツ共産党の革命運動もドイツ革命といわれるが、それらはいずれも社会民主党政権によって弾圧され、失敗した。

エーベルト=グレーナー協定による革命の弾圧

 ドイツ共和国首相となった社会民主党主流派のエーベルトは、労兵評議会(レーテ)を機関とする独立社会民主党スパルタクス団の共産主義革命を鎮圧するため、旧帝国軍のグレーナー将軍と協定を結び、軍を動員することにした。しかし、軍はすでに戦意を失っており、戦場を棄てて帰郷してしまっていたので、動員に失敗した。ついでエーベルトとグレーナー、及び新政府の国防大臣ノスケは軍の中の狂信的なカイザー派・ルーデンドルフ派の義勇兵をつのり、革命運動鎮圧に導入した。1919年1月、ベルリンでスパルタクス団(共産党)が蜂起すると、義勇兵を動員した政府側は残虐な弾圧を加え、革命運動を鎮圧した。この時、スパルタクス団の指導者カール=リープクネヒトとローザ=ルクセンブルクが殺害された。
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ノートの参照
第15章1節 イ.戦時外交と総力戦