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国会議事堂放火事件

1933年2月27日夜、ベルリンの国会議事堂が炎上、ヒトラー内閣はそれを共産党員の放火と断定し、共産党弾圧の口実とした。

 ドイツ共和国において、1933年に成立したナチ党のヒトラー内閣が国会議事堂の放火炎上をドイツ共産党の犯行と断定し、同党を解散させた事件。ナチスの政権確立の陰謀事件と考えられており、これによってヒトラーは独裁的な権力を獲得した。
 1933年1月に内閣を発足させたヒトラーは、国民に信を問うという形で国会を解散、その国会議員選挙が3月5日を投票日とした。その選挙期間の最中の2月27日夜、ベルリンのドイツ帝国議事堂が炎上した。ヒトラー内閣はこれを共産党の一斉蜂起の合図であるとみなし、その徹底的な弾圧を命じ、翌日「民族と国家を防衛するための大統領緊急令」を公布してワイマール憲法で定められた基本的人権を停止した。放火犯人としてブルガリア共産党のディミトロフ(戦後のブルガリア首相)などが逮捕されたが、10月の裁判ではディミトロフは無罪となり、元オランダ共産党ファン=デア=ルッベの単独犯行と断定された。以後共産党は解散させられ地下活動に入らざるを得なくなった。
 国会議事堂放火事件を口実に共産党の活動を押さえ込むことに成功したヒトラー政権は、さらに社会民主党議員に対しても種々の口実を設けて議会から追放した上で、翌月、全権委任法を強引に成立させ、独裁政権を「合法的」な装いのもとに成立させた。

民族と国家を防衛するための大統領緊急令

 国会議事堂放火事件の翌日、ヒトラー内閣は、それを共産党のしわざと断定し、「共産主義者による国家を脅かす暴力行為を防止する」ことを名目に、上記の大統領緊急令を発した。この緊急令によって、ヴァイマル憲法に定める基本的人権は当分の間、停止されることとなり、悪名高い保護検束制度が導入されることになった。秘密国家警察(ゲシュタポ)は、国家の敵とされた者を、具体的な犯罪行為がなくとも強制収容所におくることができるようになった。この緊急令は、その後も廃止されることなく存続し、対象も共産主義者以外に拡大され、1933年10月までに約10万人が保護検束され、そのうち500~600人が殺害されたと言われている。
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ノートの参照
第15章4節 エ.ナチス=ドイツとヴェルサイユ体制の破壊
書籍案内

山本英行
『ナチズムの時代』
世界史リブレット49
1998 山川出版社