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インティファーダ(第1次)

1987年ごろから、パレスチナ人が自然発生的に投石などによってイスラエル占領地支配に抵抗して一斉に蜂起した。

 1987年頃から、イスラエル占領下のパレスチナ人が展開した、投石などを主体とした民衆の抵抗によるパレスチナ解放運動。パレスチナ問題に新たな展開をもたらすこととなった。
インティファーダとは 「一斉蜂起」を意味するアラビア語。インティファーダは1982年にPLOがイスラエルに押さえ込まれて、アラファトがチュニスに移った後に、ガザ地区のパレスチナ民衆の中から自然発生的に始まった。パレスチナ人は大人も子供も女性も石を投げたりタイヤを燃やしたりしてイスラエル軍に立ち向かい、最初の一年で2万人が逮捕され、3百人が死亡した。このような従来と違った民衆運動にイスラエル当局も当惑したが、その背景には「ハマス」や「ジハード」と称するイスラーム原理主義運動の活動家がいた。

中東和平の動き

 この第1次インティファーダは世界の世論をパレスチナ自治に向かわせる上で大きな力となり、湾岸戦争後に中東和平交渉が進捗し、1993年のオスロ合意の背景となった。

Episode 「石を投げる者の手足を折れ」

 これはパレスチナ人のインディファーダに手を焼いた時のイスラエル国防相ラビンの有名な発言。ラビンは対イスラエル強硬派で、パレスチナの民衆反乱を徹底的に弾圧した。その彼が後に中東和平の立役者となり、ノーベル平和賞を受賞するのだから皮肉なものである。結局彼自身が和平反対派によって暗殺されてしまう。<広河隆一『パレスチナ(新版)』2002 岩波新書 p.103>

インティファーダ(第2次)

2000年9月、パレスチナで起こった反イスラエルの民衆蜂起。

 2000年9月28日、イスラエルの野党リクードの党首、軍人出身で、第4次中東戦争やイスラエルのレバノン侵攻の立役者だったシャロンは護衛の警官1000人とともにイェルサレムの「ハラム・アッシャリーフ(高貴なる聖域)」(ユダヤ教では「神殿の丘」と言われるところ)に登った。ここにはアルアクサ・モスクと岩のドームがあり、イスラーム教徒にとっては聖地とされていた。多くの反対の声を無視した、明らかな挑発行為だった。

第2次インティファーダの高揚

 これまでもイスラエルの右翼過激派によるアルアクサ・モスク放火事件や、爆破未遂事件などが起こっており、極右勢力は、イスラームの建物を破壊してユダヤ教神殿を再建することを主張していたという経緯があるため、パレスチナ側は警戒心を強めていたのである。首相バラクはこのシャロンの行動を阻止しなかった。翌29日に二万人のイスラーム教徒が抗議行動を開始し、「嘆きの壁」に祈祷に来ていたユダヤ教徒に投石した。この民衆蜂起は「第二次インティファーダ」あるいは「アルアクサ・インティファーダ」と呼ばれる。10月1日までに死者は30人以上に上った。・・・<広河隆一『パレスチナ』新版 2002 岩波新書 p.171>
 この運動を指導したハマス(非PLOでイスラーム原理主義を掲げる組織)が民衆の支持を得て、2006年1月には選挙で圧勝、パレスチナ自治政府の政権の座に就いた。インディファーダは、アラブ世界の反イスラエル闘争の中心勢力がPLOからハマスに移っていく契機となった。
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広河隆一
『パレスチナ』(新版)
2002 岩波新書