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サダト

1970年代のエジプト大統領。軍人としてナセル政権を継承し、1973年に第4次中東戦争でイスラエル軍を急襲して有利に戦ったが、和平に転じ、79年にイスラエルとの平和条約を締結した。しかしアラブ強硬派の反発をうけ、81年に暗殺された。

 Muhammad Anwar al-Sādāt  アンワル=サダト(正確には、アッ=サーダート。日本ではサダトが定着したが、サーダートとの表記も見られる)は1970年、ナセル大統領の死によってエジプト大統領(1970~81)となり、中東和平に大きな転機をもたらした政治家。もと自由将校団の一員でエジプト革命以来のナセルの同志で、その副官であった。しかし大統領に就任すると、ナセル主義を放棄し、親ソ連路線を改めて、ソ連軍事顧問団や技術者を追放、さらに社会主義政策を改め、自由経済の導入を図るという「開放」(インティターハ)政策を進めた。71年には憲法を改正して国号をアラブ連合共和国からエジプト=アラブ共和国に改めた。

第4次中東戦争

 サダト大統領は第3次中東戦争でイスラエルに占領されたシナイ半島の奪還を目ざし、同じくゴラン高原の奪回をはかるシリアアサド大統領と提携して、イスラエルを南北から挟撃する戦略をたてた。1973年10月、イスラエル側の不意をついてシナイ半島に進撃(第4次中東戦争)し、緒戦で勝利を占めてイスラエル軍不敗の神話を崩した。しかし、シリアはゴラン高原奪回に失敗、またシナイ半島でもイスラエル軍の反撃が開始され、エジプトは苦境に立った。そこで、アラブ諸国の産油国は石油戦略を発動してアメリカなどの親イスラエル国家に圧力を加え、国際的な有利な情勢のもとで和平に持ち込んだ。

イスラエルとの和平

 その上で1977年11月、アラブ首脳としては初めてイスラエルを訪問、ベギン首相と直接交渉に入った。これはイスラエルの存在を認めた上で、占領地の回復を認めさせようと言う現実的な政策であり、中東情勢を大きく転換させることとなった。翌78年9月、アメリカ大統領カーターの仲介でイスラエルのベギン首相との間でキャンプ=デービッド合意に到達し、さらに1979年3月26日、エジプト=イスラエル平和条約を締結した。この功績でベギンとともにノーベル平和賞を受賞した。

和平の理由

 サダト大統領がイスラエルとの和平に踏み切った最大の理由は、4次にわたる対イスラエル戦争が、エジプト財政を大きく圧迫していたためであった。エジプト経済を建て直すためには、アメリカの経済援助が必要と考えたが、アメリカの要求はイスラエルとの和平であった。イスラエルとの戦争を続けて「アラブの盟主」であり続けるよりも、深刻な経済を打開するためにアメリカの要求を入れて和平するという現実路線を選んだわけである。

エジプトのアラブ連盟脱退

 しかしこのサダトの和平への大胆な方針転換は、中東に真の平和をもたらすことはなかった。他のアラブ諸国と、何よりもイスラエルと厳しく戦っている当事者のPLOは、激しくエジプトの変節を非難した。サダトを裏切り者と捉えて反発し、エジプトはアラブ連盟を脱退せざるを得なくなり、アラブの盟主という地位を失うことになった。

サダト大統領暗殺

1981年、エジプト大統領がイスラエルとの和平に反対する勢力によって暗殺された。

 1981年10月6日、エジプト大統領サダトは、先の第4次中東戦争(エジプトでは十月戦争)の勝利を記念する軍隊行進の閲兵中に、式に参加していた兵士から銃撃を受け死亡した。犯人はイスラーム原理主義を唱えるムスリム同胞団系の急進派「ジハード団」の一員だった。

サダト暗殺の背景

 サダト大統領はナセルの後継者として、当初はアラブ盟主として反イスラエル、反アメリカ政策を継承し、1973年には第4次中東戦争での緒戦の勝利を勝ち取った。しかし一転してイスラエルとの和平策に転じ、79年にエジプト=イスラエル平和条約を締結、またアメリカとの経済協力も強くした。これはアラブ諸国、および国内のイスラーム過激派に大きな反発を呼び起こし、サダトは「裏切り者」と名指しされた。しかし、サダトはアメリカ資本によるエジプト経済テコ入れを推進し、反対派を除き、一族を重用するなど独裁色を強めた。
暗殺犯人の背後 サダトを狙撃したのはその親衛隊員であった。彼はイスラーム原理主義集団であるムスリーム同胞団の系列に所属していたが、なぜ原理主義者が親衛隊になれたのだろうか。それについては、サダトはナセル色を一掃し、社会主義勢力を押さえつけるため、ナセル時代には排除されていたイスラーム原理主義勢力を懐柔しようとして、親衛隊に登用したのだといわれている。その兵士によって銃撃されてしまったのは皮肉であった。
後継者ムバラク その後継者ムバラクもサダト路線を継承し、現実的な経済発展を進めながら、1981年に発令された非常事態宣言をそのまま継続し、原理主義など反体制運動をきびしく取り締まることとなった。
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