独ソ不可侵条約
1939年8月、ドイツのヒトラーとソ連のスターリンの間で締結された軍事同盟。共産主義を敵視するヒトラーと、ファシズムとの闘いを掲げていたスターリンが提携したことで世界に衝撃を与えた。また秘密協定でポーランドの分割、バルト三国のソ連による占領を承認した。ヒトラーは9月、直ちにポーランドに進撃して第二次世界大戦に突入、ソ連も同時に東側からポーランドに侵攻した。

ヒトラーとスターリンの提携を風刺した絵
1939年8月23日、ドイツのヒトラーとソ連のスターリンの間で調印された、互いに攻撃しないことを約束した条約。有効期限は10年とされた。交渉当事者であった両国の外務大臣のなをつけて、別名、モロトフ=リッベントロップ条約ともいう。
POINT
一方、ソ連のスターリンは、ヒトラーの野心が東方侵出にあることを警戒し、イギリス・フランスとの提携を模索したが、ミュンヘン会談には招かれなかった。さらに会談の結果、英仏がドイツに妥協した背後にはソ連に対する敵視が潜んでいることを感じ取り、不信を強めた。その後も英仏との交渉を続けたが、利害の対立から一致点が見いだせず、進捗しなかった。この間、ヒトラーはポーランドへの侵攻によってイギリス・フランスと戦争状態にはいることを前提に、ソ連との戦争は避けねばならないと考え、極秘にソ連との交渉を開始した。ソ連はそのとき、極東での日本との対立が5月のノモンハン事件で現実となり、兵力の分散をしなければならいという事情が生じた。スターリンは5月、それまで国際協調路線と人民戦線結成を主導してきたリトヴィノフ外相を罷免し、対独提携論者のモロトフを外相に任命した。こうして同年8月、ドイツ・ソ連の提携が具体化することとなった。
またソ連がドイツのファシズムと手を結んだことは、世界の各地で国内のファシズム勢力と戦っていた共産党や社会主義勢力に大きな失望と疑念を生み出し、それまで曲がりなりにも続いていた反ファシズム人民戦線の運動はそれによって消滅した。
ポーランド侵攻が一段落すると、1940年から強引に西に戦線を転換させ、6月にはフランスを降伏させた。ヒトラーは一気にイギリス上陸を図り、ロンドン空爆を強化したが、イギリスは頑強に抵抗したためドーヴァー海峡突破とイギリス上陸は阻まれた。また、アメリカは参戦していなかったが、1941年3月、武器貸与法を成立させ、イギリス支援を明確にした。すると、1941年4月には再び戦線を東に移し、バルカン侵攻を開始した。このことはバルカンに勢力圏を伸ばそうとするソ連との対立を生むこととなる。ドイツとの対決を想定したスターリンは急遽、日ソ中立条約を締結し、極東での日本との戦争を回避した。ついに1941年6月22日、ヒトラーは独ソ不可侵条約を一方的に破棄してソ連に侵攻、独ソ戦が開始される。
条約の要点
ドイツとソ連の間に締結された独ソ不可侵条約の要点は次の通り。<条文の詳細は下掲「史料」参照>- 相互の不可侵(お互いに相手国を攻撃しないこと)
- 一方が第三国から攻撃された場合、他方はこの第三国を援助しない
- 相互の情報交換・協議のための接触
- ともに一方を直接間接敵とする諸国家の集団に参加しない
- 相互間の紛争の平和処理
POINT
- ファシズム国家と社会主義国家が軍事同盟を締結したこと。
- 秘密条項は「レーニンの平和に関する布告」に反すること。
- 背景にはイギリスが進めたミュンヘン会談における宥和政策があること。
- 日ソ関係を転換させたこと。
- この条約は1941年6月、ヒトラーが破棄。独ソ戦を開始。
背景と経過
前年の1938年、ヒトラーのドイツは、オーストリア併合に続いてズデーテン地方の割譲をチェコスロヴァキアに要求し、ミュンヘン会談おいて、イギリス首相ネヴィル=チェンバレンの宥和政策を引き出し、承認された。しかし、それにとどまらず、1939年3月、ヒトラーはチェコスロヴァキアを解体して西半分を占領し、イギリスも宥和政策の見直しを迫られた。さらにリトアニアからメーメル地方を割譲させ、3月21日にポーランドに対し、ダンツィヒのドイツ復帰とポーランド回廊の自由通過を要求した。それに対してイギリスは、ポーランドの安全を保障する声明を出し、ドイツを牽制し、情勢は緊迫した。一方、ソ連のスターリンは、ヒトラーの野心が東方侵出にあることを警戒し、イギリス・フランスとの提携を模索したが、ミュンヘン会談には招かれなかった。さらに会談の結果、英仏がドイツに妥協した背後にはソ連に対する敵視が潜んでいることを感じ取り、不信を強めた。その後も英仏との交渉を続けたが、利害の対立から一致点が見いだせず、進捗しなかった。この間、ヒトラーはポーランドへの侵攻によってイギリス・フランスと戦争状態にはいることを前提に、ソ連との戦争は避けねばならないと考え、極秘にソ連との交渉を開始した。ソ連はそのとき、極東での日本との対立が5月のノモンハン事件で現実となり、兵力の分散をしなければならいという事情が生じた。スターリンは5月、それまで国際協調路線と人民戦線結成を主導してきたリトヴィノフ外相を罷免し、対独提携論者のモロトフを外相に任命した。こうして同年8月、ドイツ・ソ連の提携が具体化することとなった。
世界が受けた衝撃
ヒトラーとスターリンが手を結んだことは、世界に大きな衝撃を与えた。ヒトラーはかねてから東方へのドイツ人の生存圏の拡張を主張し、共産主義(ボルシェヴィズム)を国際ユダヤ主義の陰謀と同一視してソ連を最も敵対視していたし、ソ連は共産主義国家として、ドイツ共産党を壊滅させたヒトラー・ナチス=ドイツと提携するとは考えられなかったからである。またソ連がドイツのファシズムと手を結んだことは、世界の各地で国内のファシズム勢力と戦っていた共産党や社会主義勢力に大きな失望と疑念を生み出し、それまで曲がりなりにも続いていた反ファシズム人民戦線の運動はそれによって消滅した。
Episode 「複雑怪奇な欧州情勢」で内閣が総辞職
この独ソ不可侵条約で最も衝撃を受けたのは日本だった。日本は日独防共協定を結んでドイツと提携し、ソ連とはノモンハンで衝突し交戦中であった。時の平沼騏一郎内閣は、「欧州の天地に複雑怪奇なる新情勢が生じた」という声明を出し、総辞職してしまった。第二次世界大戦の勃発
その結果、直後の1939年9月1日、ヒトラー・ドイツによるポーランド侵攻が実行され、第二次世界大戦が始まった。ドイツ軍は電撃戦を展開して、ワルシャワを占領し、ポーランド西半分を占領、一方ポーランドの東側から侵攻して東部を占領し、ソ連はヒトラーとの密約に基づいて、ポーランドを分割し、バルト三国などを併合した。しかし、ヒトラーがソ連と不可侵条約を締結した目的はポーランド侵攻のために英仏に備えた一時しのぎであった。ポーランド侵攻が一段落すると、1940年から強引に西に戦線を転換させ、6月にはフランスを降伏させた。ヒトラーは一気にイギリス上陸を図り、ロンドン空爆を強化したが、イギリスは頑強に抵抗したためドーヴァー海峡突破とイギリス上陸は阻まれた。また、アメリカは参戦していなかったが、1941年3月、武器貸与法を成立させ、イギリス支援を明確にした。すると、1941年4月には再び戦線を東に移し、バルカン侵攻を開始した。このことはバルカンに勢力圏を伸ばそうとするソ連との対立を生むこととなる。ドイツとの対決を想定したスターリンは急遽、日ソ中立条約を締結し、極東での日本との戦争を回避した。ついに1941年6月22日、ヒトラーは独ソ不可侵条約を一方的に破棄してソ連に侵攻、独ソ戦が開始される。
史料 独ソ不可侵条約
独ソ不可侵条約(ベルリン条約) 1939年8月23日
ドイツ帝国政府とソヴィエト社会主義共和国連邦政府は、ドイツとソ連の間の平和的関係を強化する希望に導かれ、ドイツとソ連の間で1926年4月に締結された中立条約の基本的な諸規定から発し、以下の合意に達した。
第一条 両締結国は、単独であれ他国との共同であれ、相互に一切の実力行使、侵略行為、攻撃を差し控える義務を負う。
第二条 もし一方の締約国が第三国からの戦争行為の対象となった場合、他方の締約国は、いかなる形態においても第三国を支援してはならない。
第三条 両締約国政府は、両者の利害に関係する問題につき、相互に情報交換するため継続的に協議の機会を持つ。
第四条 締約国は、他方の締約国に直接間接に敵対するいかなる国家グループにも加入しない。(後略)
付属する秘密議定書については下掲。<歴史学研究会『世界史史料集10』p.284 田嶋信雄訳>
独ソ不可侵条約秘密議定書
1939年の独ソ不可侵条約に付属した独ソ間のポーランド分割などの秘密協定。戦後にその存在が明らかになった。
1939年8月23日に締結された、独ソ不可侵条約は、ヒトラーとスターリンという独裁者間の利害が一時的に一致したことによって成立したが、この条約にはポーランドの分割やバルト三国の併合を取り決めた秘密追加議定書(付属文書)、つまり秘密議定書が存在していた。東ヨーロッパをドイツとソ連の勢力圏に分割するという恐るべき内容であった。密約をした両国の外相の名から、モロトフ=リッベントロップ秘密協定とも言われる。
ポーランドを分割 すること、フィンランドとバルト三国のうちエストニア、ラトヴィア(リトアニアはドイツの勢力圏とする)。およびルーマニア領ベッサラビアはソ連が勢力圏とすること、という勢力圏分割協定であった。ポーランド分割は、ソ連としては、ソ連=ポーランド戦争でポーランドに割譲したウクライナなどのロシア人居住地を奪回するという名分があったが、バルト三国に対しては独立した主権国家に対する領土的野心を満たす意図であった。
なによりも、レーニンが「平和に関する布告」で提起した、無併合や秘密外交の否定という原則に、ソ連自らが違反した内容であった。9月にドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が始まると、ソ連はこの秘密協定に基づきポーランドに侵攻、またバルト三国に対して圧力をかけて1940年8月にバルト三国併合を実現した。
独ソ密約の内容
その内容は、両国でなによりも、レーニンが「平和に関する布告」で提起した、無併合や秘密外交の否定という原則に、ソ連自らが違反した内容であった。9月にドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が始まると、ソ連はこの秘密協定に基づきポーランドに侵攻、またバルト三国に対して圧力をかけて1940年8月にバルト三国併合を実現した。
戦後に明るみに出る
この秘密協定は、当時は世界では知られていなかったが、戦後のニュルンベルク裁判でその存在が明らかになった。しかし、ソ連政府は戦後も長く密約の存在を否定し続けた。ようやくゴルバチョフ政権時代になってグラスノスチ(情報公開)が始まり、独ソ不可侵条約締結50周年の1989年8月23日、100万人の「人間の絆」がバルト三国の首都をつなぎ、真相究明を求めた。ソ連も同年末、秘密協定の存在を認め、それはソ連外交の原則に反する違法な協定であり、従ってバルト三国併合は違法であったことを認めた。→ バルト三国の独立史料 独ソ不可侵条約秘密議定書
一、バルト諸国(フィンランド、エストニア、ラトヴィア、リトアニア)に属する地域の領土的・政治的変更の場合、リトアニアの北部境界を独ソの勢力範囲の境界とする。この場合、ヴィリニュス地域におけるリトアニアの権益は双方で認める。
二、ポーランド国に属する地域の領土的・政治的変更の場合は、ほぼナレウ、ヴィスワ、サンの各河川を独ソの勢力範囲とする。ポーランドの独立維持が両国の利益にとって望ましいか否かの問題、およびこの国家の境界をいかに画定されるかの問題は、今後の政治的発展いかんによってはじめて最終的に明確にされる。いかなる場合も、両国政府は、この問題を友好的了解の方法によって解決する。
三、東南ヨーロッパについては、ソ連邦側からベッサラヴィアにおけるその利益について強調された。ドイツ側からは、この地域について政治的にまったく無関心であることが言明された。(後略)
<歴史学研究会『世界史史料集10』p.285 田嶋信雄訳>