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人民民主主義

1945~48年に東ヨーロッパに登場した社会主義国の指導理念。西欧型のブルジョワ民主主義とソ連型の共産党独裁体制のいずれも批判し、人民戦線形式の政権運営を目指した。しかし冷戦のなかでソ連の統制が強化され、次第に共産主義政党による独裁体制に変質した。

 人民民主主義(people's democracy)とは、第二次世界大戦後の1945年から48年にかけて、東ヨーロッパ諸国にみられた政治理念で、共産党や社会主義政党、ブルジョワ民主主義政党などがファシズムと戦うために結成した人民戦線による政権運営を続けようとしたことであり、当初は西欧型の議会制民主主義を批判しただけでなく、ソ連の共産党独裁体制も否定していた。つまり、人民が民主主義的な手段で権力を握ろうという考え方で、ロシア革命のような暴力革命と一党独裁(合わせてボリシェヴィズムと言うことができる)ではない、選挙や多党制という民主主義のかなかで多数派を形成して人民(労働者階級)が権力をにぎるという道筋であり、その社会主義の具体化には各民族、各国家にそれぞれの道があるという考えであった。例えば、ポーランドゴムウカなどの主張がそれにあたる。同じころ、中国共産党毛沢東が打ち出していた新民主主義に近い考え方であった。

人民民主主義の変質

 しかし、人民民主主義を掲げていた国でも、初めは複数政党も認められていたが、スターリン体制下のソ連の支援を背景とした共産党の力が強まり、多党制は形骸化していった。ポーランドで見られるように、形の上では民主的な多党制を採っていながら、実質的には政党ごとに候補者名簿に登録させ、共産党候補者が多数選出されるように調整するという方法とるようになり、選挙や多党制は形骸化した。
 さらに東西冷戦が始まり、1947年にアメリカが打ち出したマーシャル=プランによって、東欧諸国が動揺したことに強い危機感を持ったソ連共産党(スターリン政権)が各国の共産党に対する統制を強めようとした結果であった。
 1947年にソ連共産党はヨーロッパ9ヵ国の共産党を結集してコミンフォルム(共産党情報局)を結成し、また48年に経済相互援助会議(コメコン)を成立させ、東欧各国ではソ連と同じように、実質的な共産党独裁(政党名は必ずしも共産党を名乗らなかったが)に移行していった。
 そうなると人民民主主義の意味合いも変化し、すべての自由で自立した市民による西欧型民主政治は幻想であるととらえ、人民=労働者階級の解放という目的のために、人民の権力を集中さる体制を意味するようになった。このような意味での人民民主主義は社会主義国家建設の第一段とされていたが、党官僚組織の肥大化、硬直化や腐敗、人民の名の下で軍部が台頭するなどの弊害を生み、真の民主主義を実現することは出来なかった。
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ノートの参照
16章1節 イ.ヨーロッパの東・西分断