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中国共産党

1921年、陳独秀らによって上海で結成された。1923年、ソ連の指示を受け国民党との合作に踏み切る。

中国でのマルクス主義の受容

『新青年』を舞台とした陳独秀李大釗にはじまるが、五・四運動は中国の革命運動に決定的な意味を持ち、また大きな画期となった。それは中国の現状を、帝国主義による植民地支配と、軍閥による封建的な支配の二重苦にあるものとしてとらえ、それまでの外国に依存した近代化や、軍閥の武力による権力闘争ではもはや救済できない、ということを民衆が自覚したことである。そしてこれを機に中国各地に、民族の独立と社会改革と求める、主として学生と青年による結社が多数現れてくる。

1.中国共産党の結成

 1921年7月、上海で創立大会を開催。党員は57名、委員長には陳独秀がなった。中国共産党の創立はコミンテルンの指導があった。コミンテルンはヨーロッパの革命運動の行き詰まりから、前年7月「民族および植民地問題にかんするテーゼ」を採択し、先進国のプロレタリアートの革命運動を支援することと並んで、帝国主義に抵抗する植民地の民族解放運動をも積極的に支援する方針を決定した。その中で、使者を何度か中国に派遣し、新文化運動に参加し、五・四運動の中心となっていた陳独秀李大釗らに共産党結成を働きかけた。その結果各地に共産主義グループが結成され、21年の共産党結成を準備した。

Episode 中国共産党の「船出」

 創立大会は、大会の途中で警察の密偵にかぎつかれたため、最終会議を浙江省の南湖の船上で開いた。文字通り中国共産党の”船出”となった。<小島晋治・丸山松幸『中国近現代史』岩波新書による>

2.第1次国共合作からと上海クーデタまで

 結成間もない1923年には、ソ連の中国政策の転換を受けて、反帝国主義闘争と反軍閥闘争のために従来のブルジョア民主主義革命を目指す勢力である孫文の中国国民党と協力の方針を打ち出し、1924年に国共合作(第1次)を成立させた。そのもとで共産党員の党籍のまま、国民党に加わり、1925年には反帝国主義闘争の高まりである五・三○運動を指導、さらに翌年26年からは蔣介石国民革命軍の軍閥打倒の戦いである北伐を支援した。しかし、共産党の勢力が強まるにつれて、国民党内の資本家との連携を強める蔣介石グループとの対立が激しくなり、1927年の上海クーデター(四・一二事件)で激しい弾圧を受け、国共合作は崩壊した。

3.国共分裂期から毛沢東主導の長征まで。

 中国共産党は、1927年の蔣介石による上海クーデターの大弾圧をうけ、全国の都市で共産党員は殺害、逮捕され大きな打撃を受けた。共産党指導部は反撃を試み、8月から9月にかけて南昌蜂起など都市での再起を図ったがいずれも失敗した。残存勢力は農村や辺境に根拠地を設け武装闘争を継続する方針に切り替えた。江西省井崗山には毛沢東が根拠地を築き、各地の共産党員は「紅軍」を組織し、ゲリラ戦を展開した。
 1931年、江西省瑞金中華ソヴィエト共和国臨時政府を樹立、毛沢東を主席としたが、その主導権はコミンテルンの指示を受けたソ連派が握っており、都市に対する全面的な攻勢という路線は維持された。「中華民国」内に共産勢力の独立国家が成立したことは、南京国民政府の蔣介石に大きな危機感を抱かせ、蔣介石はその年に満州事変が勃発して日本の侵略が本格化したにもかかわらず、共産党討伐(囲剿戦)に全力を挙げることになった。この国民政府軍の攻撃に遭い、共産党は瑞金を放棄せざるを得なくなり、いわゆる長征を行い、この途中の1935年1月の遵義会議において、コミンテルンの指示に忠実なソ連派に代わって毛沢東が指導権を確立し、延安に本拠を移すこととなる。 → 第2次国共合作