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ゴムウカ

ポーランドの統一労働党指導者。人民民主主義に立った独自の社会主義路線を指導したが、1948年、親ソ連派によって失脚させられ、一時逮捕された。1956年のポーランド反ソ暴動に際して復活したが次第に権威主義的に保守化し、1970年にグダニスクの民衆蜂起によって退任した。

ゴムウカ

Władysław Gomułka
1905-1982

 ゴムウカは、日本ではかつてはゴムルカと表記されていたが、そのポーランド語表記、Władysław Gomułka はヴワディスワフ=ゴムウカとするのが原音に近い。ポーランド統一労働者党(共産党)指導者で第一書記(書記長)。1920年代から労働運動に加わり、1932年には非合法活動で投獄され、出獄後、1934~36年にソ連のモスクワに行き国際レーニン学校で共産主義を学んだ。ドイツ軍のポーランド侵攻によって第二次世界大戦が勃発すると、ドイツ占領地域で共産党系の抵抗運動(レジスタンス)を組織し戦った。1942年、ソ連共産党の指導でポーランド共産党が労働者党と改称すると中央委員、43年から第一書記となって党の主導権を握った。

親ソ派から独自路線派へ

 1945年5月、ポーランドがソ連軍によって解放されると、ソ連主導の戦後のポーランド再建に協力し、6月に発足した臨時政府の副首相に就任した。ゴムウカは反対派を粛清するなどモスクワのソ連共産党に忠実な人物とみられていたが、ドイツ占領下で共産党系の抵抗運動を指導し、国内に残っていた自主路線派(ソ連派に対して改革派ともいうことができる)の支持も受けており、強い基盤を築いていた。ゴムウカは、同年暮に「社会主義へのポーランドの道」を発表、ポーランドはソ連と異なり暴力的変革や一党独裁を必要とせず、カトリック教会、個人農、手工業・商業における個人経営を温存することなど、安全保障はソ連との同盟を依拠しながら西側諸国とも友好関係を維持するという、「人民民主主義」と言われる路線を表明した。
 冷戦の開始は、ソ連共産党とゴムウカの違いを表面化させた。1947年6月、アメリカがヨーロッパ復興計画(マーシャル=プラン)を発表すると、ポーランドはそれに応じようとしたが、ソ連の圧力で断念せざるを得なかった。同年9月、ポーランドで開催されたヨーロッパ9カ国共産党代表者会議で、ソ連代表は世界が二つに分裂したという見解を表明し、この席でコミンフォルム(共産党情報局)の設置が決定された。ゴムウカはそれにためらいをみせ、また農業集団化などでもソ連代表とは微妙に異なった立場をとった。『世界各国史 ポーランド・ウクライナ・バルト史』山川出版社 p.366

統一労働者党の結成と、ソ連派による投獄

 1948年、ゴムウカは非共産主義政党である社会党を取り込んで政治基盤を安定させることを目指し、労働者党と社会党の合同を強引に進めようとした。しかし、ソ連のスターリン政権は反発し、そのころコミンフォルムを除名されたユーゴスラヴィアのティトーと同じ「右翼的民族主義的傾向」であると批判し、ゴムウカは早くも8月末に労働者党第一書記を解任されていた。
 1948年12月には労働者党と社会党が合同し、ポーランド統一労働者党が結成された。この党は旧労働者党が大勢を占めたので、実質的には共産党と同様であり、しかもゴムウカなど民族派はすでに排除されていたので、親ソ派(スターリン派)が主導権を握ることになった。ゴムウカは民族派の中心人物とみられて党から排除され、1951年には逮捕・投獄されてしまった。こうしてポーランドのスターリン体制化が進み、農業の集団化が強行され、政治・軍事上のソ連への従属とが進み、国民の自由は抑圧されることになった。

ポーランド反ソ暴動で復権

 1956年2月、ソ連でスターリン批判がはじまり、「雪どけ」の状況となるなかでゴムウカは釈放された。同1556年6月28日、ポズナニ暴動から始まったポーランド反ソ暴動が深刻になる中で、党の改革派から推されて第一書記に復帰し、スターリン派を排除して改革を実行した。ソ連のフルシチョフは軍事介入を決意して自らワルシャワに乗り込んだが、ゴムウカは対決を避け現実的な対応をした。ゴムウカは、ドイツとの領土問題を抱えている以上、ソ連との軍事衝突はどうしても避けなければならないと考えていた。フルシチョフもゴムウカ復権を承認、軍事介入を回避した。
 10月には国民の前で「社会主義の道」という演説を行い、社会主義には多様な道があることを示した。ゴムウカはポーランドの独自内政の主導権を確保したが、一方でワルシャワ条約機構からの脱退はせず、安全保障上ではソ連との同盟関係を維持することを掲げため、ソ連もゴムウカ政権を容認せざるを得なかったのだった。この点が、ハンガリーのナジ=イムレが処刑されたのに対し、生存できた理由であった。

Episode ゆきすぎのないスターリン主義

(引用)ゴムウカは禁欲的な独裁者であった。個人的な野心のためではなく信念のために政治をおこなった。孤高を保ち、派閥をこえて支配しようとした。このためしだいに現実から遊離する傾向があった。妥協の必要は知っていたが、視野が狭く、実験を嫌った。基本的に1948年に中断された「社会主義へのポーランドの道」を再開しただけで、国内的にはスターリン主義的ゆきすぎのないスターリン主義といってよかった。前半は比較的順調に経過し、「小康状態」と呼ばれたが、後半はあいつぐ危機にみまわれ、労働者の蜂起によって政権を追われることになる。伊東孝之『世界各国史 ポーランド・ウクライナ・バルト史』山川出版社 p.378

権威主義的指導に変質

 ゴムウカは復活したが、その後は次第に保守的な姿勢をとるようになった。早くも1957年には「修正主義」批判をおこない、改革派知識人の機関紙を発禁処分にするなど党改革の否定を明確にした。党人事でも改革派は排除され、スターリン派が再び登用されるようになった。1958年からは、経済相互援助会議(コメコン)の政策に賛成し、また中ソ対立ではソ連支持を明確にした。1968年のチェコ事件では自由化路線の否定にまわり、ワルシャワ条約機構軍の派遣を主張した。

1970年、二度目の失脚

 しかし、1970年にグダニスクで物価騰貴に反発した民衆が蜂起すると厳しく弾圧した。このような外交・内政における硬直した権威主義的な指導は、次第に批判されるようになり、同年、統一労働者党はゴムウカを解任、ふたたび失脚し、ポーランドは激動の時代に向かっていく。
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書籍案内

伊東孝之/井内敏夫/中井和夫
『ポーランド・ウクライナ・バルト史』
新編世界各国史20
1998年 山川出版社