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東ヨーロッパ社会主義圏/東欧諸国

第一次世界大戦でのナチス=ドイツの支配から解放され、ソ連の影響が強まり、社会主義政権が次々と成立した。

 東ヨーロッパ(東欧)は地理的な概念ではなく、世界史上の第二次世界大戦後に出現した、ソヴィエト連邦と連帯した社会主義政権(多くは共産党と称した)国家群を指す。具体的には東ドイツポーランドハンガリールーマニアブルガリアチェコスロヴァキアユーゴスラヴィアアルバニアの諸国をさす。

東欧諸国の戦後政権成立事情の違い

 ポーランド、ハンガリー、ルーマニアでは共産党の力が弱かったがソ連とソ連軍(赤軍)の後押しで、国民の反対を押し切って共産党政権が出来た。ユーゴスラヴィアとアルバニアでは共産党が独力でパルチザン闘争を行い、権力を獲得した。ブルガリアもそれに近い。チェコスロヴァキア(現在はチェコとスロヴァキアに分かれている)は当初は社会主義政権ではなく、ソ連との協定にもとづいて帰国した亡命政府が政権を形成した。ところが1948年2月に共産党によるチェコスロヴァキアのクーデターが成功して社会主義陣営に加わることになった。またユーゴスラヴィア(現在は分解してしまった)は独自に解放を勝ちとった経緯からソ連の影響は弱く、社会主義国家とはなったが、ソ連の陣営には与せず、独自路線を歩むこととなる。

人民民主主義

 第二次世界大戦時にはポーランド・チェコスロヴァキア・ユーゴスラヴィアは連合国側、その他は枢軸国側であったが、いずれもナチス=ドイツの侵攻・占領を受けるか、国内に成立した親ドイツのファシズムに支配されていた。戦後は各国とも反ファシズムに結集したいろいろな政党が協力する人民戦線的な政権を樹立し、人民民主主義を掲げて共産党一党独裁ではない国家を目ざした。しかし、戦後の自立の過程でソ連の支援を受け、その直接的指導による共産党(国によって名称は異なる)が主導権を握り、一党独裁体制を作り上げてゆき、1948年までには人民民主主義での複数政党制は形骸化した。

ソ連の衛星国化

 これらの東ヨーロッパ諸国では、冷戦の進行に伴い次第にソ連およびソ連共産党の影響力が強まり、ソ連の「衛星国」としての性格を強めていった。1947年10月に結成されたコミンフォルム1949年1月のコメコン結成などを経て、ソ連を中心とした「東ヨーロッパ社会主義圏」、いわゆる「東側諸国」を構成することとなった。この動きは1955年5月のワルシャワ条約機構の結成によって決定的となった。

東欧諸国の独自性

 しかし、各国の歴史的・文化的性格は異なっており、東ドイツ・ポーランド・ハンガリー・チェコスロヴァキアはキリスト教カトリック、ブルガリア・ルーマニア・ユーゴスラヴィアはギリシア正教の伝統が根強く、さらにユーゴスラヴィアとアルバニアにはムスリムも存在するというように宗教的な違い、また戦後政治過程においてもソ連との関係に違いがある。ユーゴスラヴィアのように社会主義国家となりながら早くからソ連と一線を画して非同盟諸国の一つとして活動する国もあり、また1956年2月のソ連のスターリン批判以降は、ポーランド反ソ暴動(ポズナニ暴動)でのゴムウカや、ハンガリー反ソ暴動(ハンガリー事件)でのナジ=イムレのように異なった路線をとろうとしてソ連に押さえつけられたり、1960年代の中ソ論争でアルバニアが中国との関係を強めてソ連と対立したり、またルーマニアのように独自の経済政策をとった国も現れ、足並みはそろっていなかった。

社会主義独裁政権の長期化

 総じてどの国も共産党一党独裁体制の元で独裁的長期政権が維持された。1961年にベルリンの壁の構築を断行した東ドイツのウルブリヒトとホネカー、ポーランドのゴムウカとヤルゼルスキ、ハンガリーでのカーダール、ルーマニアのデジとチャウシェスク、ブルガリアのジフコフ、ユーゴスラヴィアのティトー、アルバニアのホジャなどがそれにあたる。どの国も基本路線としては社会主義計画経済をとっていたが、1960年代から成長が停滞し、市場経済の導入を模索する動きも出てきた。ソ連はそれらの動きを封じるために、1968年8月、ソ連を中心としたワルシャワ条約機構軍がチェコスロヴァキアに侵攻したチェコ事件の時に制限主権論(ブレジネフ=ドクトリン)をかかげ、社会主義国全体の利益は一国の主権よりも優先するという原則を打ち出して東欧社会主義圏への統制を強めた。

東欧諸国の停滞とソ連離れの始まり

 1970~80年代には市場経済の導入と、それと並行して複数政党制による議会政治への転換も芽生えてきたが、民主化は進まなかった。肥大した官僚機構と冷戦下の軍備増強が財政を圧迫し、自由競争のない経済体制は生産力の低下を招いて、ソ連社会の停滞が明らかになってきた。ソ連は1979年のアフガニスタン侵攻あたりからさまざまな国内体制の遅れが目立ち始め、1985年に登場したゴルバチョフ政権は改革の必要に迫られ、ついに制限主権論を放棄する。それを受けて急速に東欧諸国のソ連離れ、民主化の動きが加速し、1989年に一斉に民衆エネルギーが噴出し、社会主義体制から市場経済の導入、複数政党制による議会政治導入などの民主化が実現した。この東欧革命によって東欧社会主義圏は解体され、さらに1991年にコメコンの解散ワルシャワ条約機構の解散が相次ぎ、1991年12月8日ソ連の解体まで行き着くこととなった。<木戸蓊『激動の東欧史』1990 中公新書 などによる>

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木戸蓊
『激動の東欧史』
1990 中公新書