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中ソ関係の正常化/ゴルバチョフの訪中

ソ連のゴルバチョフが中国の鄧小平政権の1989年5月に訪中し、1950年代後半からの中ソ対立に終止符を打ち、国交を正常化させた。その時北京で第2次天安門事件がおきていた。

 1989年5月、ソ連のゴルバチョフ書記長が中国を訪問、鄧小平と会談して、中ソ対立を終わらせ、国交を正常化させた。

中ソ関係の変化

 中ソ関係は、1956年のソ連のスターリン批判以来の中ソ対立が続き、冷え切っていたが、1970年代に入り、東西緊張緩和(デタント)の進行や、中国の文化大革命の終結、鄧小平の改革開放路線の開始、などよって次第に関係改善の環境が整備されてきた。1985年にソ連に登場したゴルバチョフ政権は、「新思考外交」を掲げて中ソ関係改善にも乗り出した。1986年、極東のウラジヴォストークで演説したゴルバチョフは中国に関係改善を呼びかけ、鄧小平もそれを受け入れる準備があると表明して世界を驚かせた。

ゴルバチョフ訪中と天安門事件(第2次)

 当時は、カンボジア問題、アフガニスタン問題、国境兵力問題が「三大障害」とされたが、その克服が図られることとなった。1989年5月、ゴルバチョフは訪中し、鄧小平と会談、中ソ関係の正常化を承認した。
 ところがゴルバチョフが訪中した1989年5月15日は、4月の胡耀邦総書記の死を追悼する学生が、民主化をもとめて天安門広場で集会を行っている最中だった。そのため、天安門で開かれる予定だったゴルバチョフ歓迎集会も中止となり、またゴルバチョフー鄧小平会談を取材に来ていた世界中のマスコミも騒然とした事態を報道することになった。ゴルバチョフは鄧小平の他に共産党総書記趙紫陽とも会談したが、趙紫陽は学生・市民の民主化要求に理解を示したため、鄧小平と対立、失脚することとなった。
 ゴルバチョフとの交渉を終え、18日にその帰国を見送った鄧小平政権(首相は李鵬)は、20日に戒厳令を布き、ついに6月4日に武力弾圧を強行し、多数の死傷者がでた(天安門事件(第2次))。

ソ連崩壊の激動へ

 この年は2月にはポーランドの民主化運動から始まった東ヨーロッパ諸国での民主化運動が一気に盛り上がり、一連の東欧革命が続いた。ゴルバチョフは帰国後、それらの変革に直面することになる。中国とソ連の権力者にとってそれぞれお尻に火がついていたわけだ。しかしその後の二人の共産党指導者の運命は異なっており、鄧小平は権力を維持したまま1997年に死去するが、ゴルバチョフは1991年8月のソ連共産党を解党、12月のソ連邦解体によって大統領の地位を追われることとなる。
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